ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
生きる姿 [2005.7.]音声を聞く

おはようございます。2回目の時、私は、生きがいや生きる意義があるから生きるんだと言いました。そして、私達があせって、生きがいを見つけなくても、いのちの誕生というところに注目をすれば、生きているだけの値うちが見えてくるのではないかと言いました。3回目では役に立つということ、そして、4回目にはいのちの歴史を見てきました。
さて私達は地球の誕生以来、とてつもなく長い時間をいのちが生き死にを繰り返す中から生み出されてきたのでした。過去から未来に繋がるいのちのリレーのバトンを、今、私は受けとっていたのです。運動会のリレーの時、先に走った人たちは、次に走ってくる人に大声援を送りますね。それと同様に、私に繋がる数えきれない程のいのちさん達が、いつもいつも応援してくれているのです。限りある生を、きちっと生きてほしいという願いをもって。だから、いのちは、脈々と伝わっていくのでしょう。虫や動物達は余計なことを考えないので、いのちの促しの中できっちりと生きているのがわかります。
以前、ニュージーランドで、私は土ぼたるの生態を知りました。土ぼたるの幼虫は、いも虫の形をしていて、しーんと静まりかえった真暗な洞窟の中に居ます。暗いので、幼虫は見えませんが、天井の壁にはりついて、くもの糸のようなものを20センチ程たらしています。エサになる虫を引き寄せる為に、その先端は青く光っているのです。洞窟の天井を見上げると、満天の星空のようでした。幼虫は、虫がかかると、糸をたぐり寄せて引き上げるのだそうです。そして成虫になるのですが、成虫には口がありません。それは、成虫で生きる時間が短いので、食べる必要がないからだと聞きました。成虫になって短い時間の中で交尾をして、次へいのちをつなげると、自ら幼虫たちの糸にかかって食べられていくということでした。いのちのうながしに従っているとはいえ、壮絶な生き様に心が打たれます。土ぼたるは自分の生を、唯々生きています。これが、きっちりした生き方なんだと思わされます。土ぼたるは、あえて、生きがいや生きる意義などと、小むずかしいことは言いませんが、ここに、生きるという原点を見る思いがします。
ところが、私達人間は、こんなにいさぎ良い生き方は出来ません。それは脳が発達しているので、とても複雑なことになってしまうからのようです。私達も、いのちそのもので生まれてきました。いのちそのものとは、いのちの願いそのものと言いかえられるかも知れません。そうして生まれてきたいのちも、赤ちゃんのうちは、特に自分と他人を分けて競い合うことなどはしませんが、成長するに従って自分というものを主張し始めます。みんなが自分、自分と主張するので、自分に価値をつけて、他人(ひと)よりも優位に立とうと頑張ります。こうして、みんながナンバーワンを目指すのですから、他人はみんなライバルです。他人の成功や幸せなど、本心では喜べません。他人の悲しみも、共有などしている場合ではありません。さて、こうした気持ちを作り出すものを、仏教では「三毒の煩悩」と押さえられています。その1つ目は、あんなはずでなかった、こんなつもりで無かったと、はずとつもりで生きるので、事実を事実として受け止められないということです。愚痴の世界です。2つ目は、あれがほしい、こうしてほしい。ああなりたい、こうなってほしいと、貪欲で、満足のない世界です。そして3つ目は自分に都合の良いものは愛し、そうでないものは怒ったり憎んだり、妬んだりすることです。この自分の主張を通そうとする世界を、瞋恚(しんに)といいます。この瞋恚は地獄を生み出します。地獄は死後の世界でなく、他と仲よく出来ない世界を言うようです。そして2番目の貪欲な世界では仏教でいうところの餓鬼になる。むさぼる鬼です。仏教では畜生とは主体的に生きられないことです。私達は人間として生まれてきたはずなのに、いつの間にか地獄の底を餓鬼や畜生で生きているようです。

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