ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
無量寿を生きる [2005.8.]音声を聞く

おはようございます。前回、過去から未来に繋がるいのちのリレーのバトンを、今、私達は受けとって、自分のコースを走っているという話をしました。しかし、正確に言うと、とてつもなく長い時間、いのちが生き死にを繰り返す中から生み出されたいのちの一つを、何時の間にか「自分」とか「私」と言っていたのです。その生み出されたいのちは、ちゃんと生きる方向を知っているようです。いろいろな生きもの達が、自然環境に適応しながらも、その種の生き方をきっちりと踏襲しているのは、その証ではないでしょうか。
そこからすると、人間に生まれたいのちさんもちゃんと人間の生き方を知っていることでしょう。ところで、前回、私達の生き様を見ていったところ、地獄の底を、仏教でいう餓鬼や畜生の姿で生きていることが判明してきました。地獄、餓鬼、畜生とこんなどぎつい言葉を言われるのは嫌ですから、その言葉を聴いたとたんに、私とは関係のないことと言って心を閉ざしたくなってしまいます。私も以前は、そうだったのですが、自分は正しいと思い込む癖があるのが分かってからは、人と通じあえない地獄の世界ということには納得できるのです。そして、餓鬼については、たいして必要のない物なのに、つい買ってしまったり、ああいう風になりたいと思って、やり始めても三日坊主。そして今度はこっち、という具合で、餓鬼、むさぼる鬼と言われても仕方がないのです。しかし、畜生については、今一つ納得ができませんでした。ところが先日、保育研修会の中で、ある先生がこんな話をされました。園児さんと昼食をとりながら、「この肉は豚さんのいのち、これはお米さんのいのち」と口に入るものが、総ていのちあるものだと話しながら、「だからいただきますをするんだよ」と教えられたそうです。そして、「ライオンはシマウマを食べる時、いただきますをするか。さるが木の実を食べるのに、いただきますをするか」と子どもに聞くと、子どもたちは「そんなことしないよ」と答えたそうです。そこで先生は「そうだろう。しないだろう。いただきますをしないものを畜生というんだ」と教えました。すると、数日して、一人の子どもが「園長先生、僕のお父さんは、ご飯のときにいただきますをしないから畜生だよ」と言って来ました。でも、お父さんにはそう言っていないと聞いて「しかられたら、園長先生がおとうさんをしかってやるから、ちゃんと言ってこい」と言われたとのことです。後日、保育参観の時、その子のお父さんが頭をかきながら「園長先生、オレ、もう、ちゃんといただきますをしているから」と言われたそうです。「本当のことは、ちゃんと伝わるんですね」と、その先生は言われました。
とても乱暴な言い方のようですが、いただきますをしないのは畜生だと言われてみて、確かに私は畜生として生きていると思わされたのです。実は、私達は、いろいろな関わりを頂きながら生きている存在です。しかし、自分にとって都合の悪いことや、嫌いだと思っている人との関わりは避けようとします。ここではいただきますが出来ないのです。だから、先程の先生の話からすると、私は畜生ということになるのでしょう。これで、私の中は三毒の煩悩だと見えてきました。すると、「私のいのちは、どうして私に、人間としての生きる方向を教えてくれなかったのか。」と、いのちさんにまで文句を言ってしまいそうですが、実は、私が、いのちさんの存在を、無視していたのです。初めは、いのちさんが主体で生きてきたのですが、私という自我を感じるようになるに従って、私が主体になってしまっていたのです。私がいのちを生きているんだと。私が主導権を持っているのですから、いのちさんの声など無視してきたようです。その結果、私はとんでもない生き物に成長してしまいました。何時でも、気づいたところからスタートだと言われますから、無量寿といういのちの願いを、何とか聞き続けていきたいと思うことです。

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