ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
生きる意義 [2005.7.]音声を聞く

おはようございます。前回の最後に、「生きがいや生きる意義の為に、生きるのではない。生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」と考えてみたいと申し上げました。私達は、何々の為にと、先々のことを考えて、今の生活をつくります。そうでないと、「目先のことばかりして」とか「先のことをちゃんと考えなさい」と叱られたりします。そういう中で、先々の為に何かをするという考え方は当然のようになっています。それに関連して、ずっと以前に見たマンガを思い出します。
お母さんが子どもに「勉強をしなさい」と口うるさく言います。そんなお母さんに子どもも応戦します。「ねー、お母さん。どうして勉強をするの」もちろん、お母さんは自信をもって答えました。「良い中学校へ行く為よ」。子どもは又聞きます。「どうして良い中学へ行くの」「それは、良い高校へいく為よ」。子どもは「ふーん」といいながらも、また聞きました。「どうして良い高校へ行くの」「それはもちろん、良い大学へ行く為よ」お母さんは、子どもへの期待と重なって力強く答えました。子どもはまだ聞きます。「ねー、どうして良い大学へ行くの」「それは、良い会社に入る為よ」お母さんはうっとりして答えました。「へー、どうして良い会社へ入るの」「それは、偉くなる為よ」お母さんはにっこり笑いました。「ねー、お母さん、偉くなるとどうなるの」お母さんはすまし顔で言いました。「偉くなったら、死んだときに、たくさんの花輪が並ぶのよ」。それを聞いて子どもは叫びました。「あっ、そうか、ぼくは死んだ時に沢山の花輪をもらうために勉強するんだ」。こんなおちですから、お腹をかかえて笑えそうなものですが、その時私は、くすっと小さく笑いました。それは、そのお母さんを他人(ひと)ごととは思えなかったからなのでしょう。さて、このお母さんはちゃんと先を見通しているかのように答えていますが、何か変ですね。しかし、私達の周囲には、同じようなことがたくさんあります。
70歳を過ぎたある紳士のお話をしましょう。非常に真面目な方で、毎朝4時頃から3時間程、犬の散歩をするという日課を10年以上も続けてきました。アイデアマンで、健康法もいろいろと楽しんで実行していました。ある時、足がしびれるということに始まって、暫くすると、立ち上がっても、すぐには、歩き出すことが出来ないというようになりました。病院へ行くと軽い脳梗塞でした。早速、入院をして治療をしたところ間もなく退院できました。しかし、その後、半年程、入退院を繰り返して、リハビリーも頑張りましたが、車椅子の生活になりました。その頃から、彼は、家族以外の人と会うのを嫌いました。自分が自分らしいと認めてきたかくしゃくとした紳士の姿が、保持できなくなったことに、納得できなかったようでした。家族の方に、「自分は、歩けなくならないようにと、あれだけ努力してきた。それなのに、歩けなくなるなんて」と、怒りと悲しみの胸のうちを話されたということです。先を見越して準備してきたつもりだっただけに、そのショックはどんなに大きかったことでしょう。彼は、いつまでも、かくしゃくとした紳士でいること、そして、他人(ひと)からもそのように見られ、評価されることが、生きる意義だったのではないでしょうか。それが消えたとき、彼は自分が見えなくなってしまいました。自分で生きがいを作っていこうとする時には、こうした大きな落とし穴があるのです。
私達には、未来の予知能力など無いのですから、こうなるはずと言っても、それは、作りごとでしかありません。そんな不確かなことに、気をとられないで「生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」ということに目を向けてみませんか。「生きがい」の意味を岩波の国語辞書で調べてみると、「生きているだけのねうち」と書いてありました。私達が、あせって生きがいを見つけなくても、いのちの誕生というところに注目をしていくと、生きているだけのねうちが見えてくるのではないかと思います。

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