ラジオ放送「東本願寺の時間」

靍見 美智子(神奈川県 西敎寺・アソカ幼稚園副園長)
いのちの歴史 [2005.7.]音声を聞く

おはようございます。前回は、父親に仕事を頼まれ、「私ばっかりが損をするんだから」と言った時、父に「損をするのが嫌なら止めなさい」と言われた。その時私は、損をするのも嫌だけれど、損をするから止めるというのは、ケチなあり方だと感じて、損をする道を選んだ、という話をしました。そして、それを選んだのは私の頭ではなく、いのちが選んでくれたように思うと言いました。私達は日頃、損得勘定の中で、ケチなことなど沢山していますから、今更ケチなあり方が嫌だと、「自分の頭が言うはずはない」と考えるからです。
ところで、いのちと言えば、みんなすっかり分かっているように思ってしまいますが、形としてははっきり見えるものではないので、時々混乱をきたします。そこで、いのちという言葉がどのように使われているのか、見ていきたいと思います。先ず、生まれてから死ぬまでの期間限定で、個人個人が持っていると感じるいのち。又、お母さんが「この子は、私のいのちです」と表現することがあります。今、ラジオを聞いていてくださる方の中にも「君は僕のいのちだ」と言ったり、言われたりした方がいらっしゃるかもしれません。この上なく大切で、「かけがえがないこと」の表現にも使うのですね。又、私には、真宗の教えを様々な形で教えてくださった何人かの先生がいらっしゃいますが、私はその方々を、いのちの恩人と感じています。この時のいのちは、どう生きるかという、生きる方向性を問題にしているようです。こうして、様々に使われるいのちと言う言葉ですが、そのいのちの中身は、どうなっているのでしょうか。
私達は、お父さんとお母さんの2人からいのちをもらって生まれて来ました。しかし、お父さんと、お母さんにも2人ずつの親が居るわけですから、そのつながりをみると6人のいのちをもらっていることになります。しかしその人たちにも二人ずつの親が居ますから、曾おじいさん、おばあさんの代を考えただけでも14人のいのちがつながっていることがわかります。こうして、私達のいのちの繋がりをたどってみると、そのもとは、四十数億年前の地球誕生にあるということです。私達は今、人の形をして生きていますが、サルだった頃のしっぽの名残りとして、尾てい骨があります。また、氷河期だった頃の人間は、毛むくじゃらだったようです。その名残が体毛です。そこから見ると、今の人間は、ちょこっと毛が生えてる中途半端なけものなのだそうです。また、その毛を顕微鏡で見ると、うろこが並んでいるように見えます。キューティクルって、それだったのですね。魚だった時代の名残です。涙や血がしょっぱいのは、私達が海から生まれてきた証拠。すごいですね。一人の命の歴史は。ここでは血の繋がりだけを見てきましたが、私達は動植物のいのちを殺して、自分の中にとり入れていますから、そうした多くの生きもの達のいのちも、わたしのいのちのつながりの一員です。私は鶴見家の子として生まれていますが、こうして親元をたどっていくと、地球から生まれて来たのだと知らされます。私は地球の子だったのです。でも、地球は宇宙が生み出していますから、わたしのいのちの故郷は、宇宙だと言えそうです。もう、目がくらむ程のいのちが、今の私の中身だったのです。そして、このいのちは血縁だけではなく、様々な形をとって他の人々の中にも生きていくことでしょう。普段、あまり考えないことですが、いのちには、こうした世界があったのです。ここに無量寿、計りしれないいのちと言う言葉を感じます。正信偈の冒頭に有る「帰命無量寿如来」は、このいのちの歴史に目を向けなさいと言っているのではないでしょうか。そして、「南無不可思議光」この大いなるいのちは、現にそうして「在る」ことが事実なのだから、ごちゃごちゃ詮索などせずに、唯々「いただきなさい」といわれているように思います。

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