ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤原 正寿(石川県 浄秀寺)
第2話 空しく過ぎることのない人生 [2006.9.]音声を聞く

おはようございます。本日も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話をさせていただきます。
前回は、私たちが当然のことだと思っている、今生きているということについて、このテーマから問いかけられていることをお話ししました。私たちは、幸せを願って毎日の生活を送っていますが、実際は、幸せを追い求めならがら、将来への準備のためだけの「今」の抜け落ちた生活になっているのではないでしょうか。
親鸞聖人は、このような私たちの生き方、人生を「空過」つまり、空しく過ぎる人生であると、頷かれました。親鸞聖人が、75?76歳頃にお作りになられた「高僧和讃」に、

本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
(『真宗聖典』490頁)

といううたが、一首あります。ここには、「むなしくすぐるひとぞなき」と、空しく過ぎる人生への痛みと、そのような人生を超えることができた感動が詠まれています。
親鸞聖人のご生涯に思いを致すとき、いろいろな感慨をわたしたちは抱くのですが、聖人がそのご生涯を貫いて課題とされたことは、この空過する人生をいかにして超えることができるのか、空しく過ぎない人生とはいかなるものであるのかという事にあったのではないかと私は受け止めています。
現代は、宗祖の時代とは比較にならないほど便利な社会になって、電話もあり、メールもあり、簡単に人と人とが連絡を取り合うことができて、たとえ北海道と沖縄に住んでいても、いつでも相手とつながることができます。しかし逆にお互いが出会っているという感覚は、ますます希薄になってきているのではないでしょうか。携帯電話が手放せず、人と絶えず連絡を取り合っていなければ不安でいられないという若者。連絡が取れなくなったとたんに、自分が孤独で寂しくてたまらないという。このような感覚の根底には、連絡を取り合っていることで、自分の満たされない空しさをまぎらわそうとしているということがあるのではないでしょうか。「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき…」という言葉には、寂しさを埋めるために人とつながっていこうとする、私たちの生き方への痛みが込められてるように感じます。自分自身の生き方丸ごと全体に満足する世界が与えられないと、私たちはいつまでも満たされない空虚感にさらされ続けるのです。だから、将来への準備をする営みだけでは、不安は解消しないのです。
先日、ガン患者のためのカウンセリングという仕事をされている40代の女性のお医者様と対談したときに、そのお医者様から、「私たちは、生まれてくるときも、また死を迎えるときも、ほとんどの場合、病院がその現場となっている。それにもかかわらず、現在の病院は、決して幸せに死を迎える場所にはなっていない。」というお話しをうかがうことがありました。「現在の医療は、長生きすることが良いこととされていて、そのためには、からだじゅうに管を通して治療が行われます。副作用で髪の毛が抜け落ち、顔や手足が膨れて、出血で体中が紫色になっても、抗ガン剤によってガンと闘わせられる。このような状況を想像すると私たちの誰もが、そこまでされることは望まないと思う。」とその先生は言われました。そんな患者の姿を見ると、ここまで苦しい治療は受けたくないと私たちの誰しもが思うと言われるのです。しかし、そこで問われていることが、実は、単なる治療の方法という問題だけではなく、私たち一人ひとりの「いのち」に対する価値観そのものであることには、なかなか思いが至らないのではないでしょうか。このような医療を求めたのは、他ならない、私たち自身なのです。そしてこれは、医療ということだけではなく、私たちの生き方全体に関わる大問題です。死を遠ざけ、長生きや経済的社会的な成功に価値を見ている私たちの生き方まるごとが「むなしいもの」と、頷ける世界にまなこが開かれることを親鸞聖人は大切な課題とされ、生涯をかけて問い続けられたのではないでしょうか。

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