おはようございます。これまで「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながら、現代を生きる私たちが教えに出遇うとはどういうことかについてお話をさせていただきました。最後になりましたが、前回もお言葉を紹介しました清沢満之先生の言葉を通して、このことを尋ねていきたいと思います。
清沢満之先生は、明治を代表する知性人であり、同時に、生まれた家庭は真宗寺院ではありませんが真宗の教えに帰依し、大谷大学の初代の学長をされた方です。また、近代における親鸞教学の先駆けとなった人物でもある清沢先生が、次のような言葉を記しておられます。
依頼ハ苦痛ノ源ナリ 財貨を依頼めば財貨の為に苦めらる 人物を依頼めば人物の為に苦めらる 我身を依頼めば我身の為に苦めらる 神仏を依頼めば神仏の為に苦めらる そのゆえ何ぞや。他なし、「たのむ」心が有相の執心なればなり。これを自力の依頼心と云う。 |
ここに、私たちが私たちの生活の中で、真宗の教えと出遇うということはどういうことであるのかについて、その具体的なありかたが明らかに示されているのではないでしょうか。
私たちは、なぜ「財貨」、すなわち金銭を大切にするのでしょうか。それは、私たちが経済的に恵まれることによって幸せになれると信じているからです。私たちは、なぜ「人物」、つまり人を大切にするのか。それは、良好な人間関係が幸せな生活をもたらすと信じているからです。私たちは、なぜ「我身」を大切にするのでしょうか。それは、健康で何でもじぶんでできる身体でいることが、幸せな人生であると信じているからです。そして、もしも私たちが今の状況に満足できていないとすれば、その理由は、このような、経済的安定と、良好な人間関係、そして健康な身体という条件をじゅうぶんに確保していないためである、と信じて疑うことはないのです。そして、「神仏」、神や仏を大切にする。これも豊かな情操を育み、心の豊かさを持つことは、幸せの条件であると信じているから大切にしているのではないでしょうか。
しかし、清沢先生は、私たちに問いかけます。私たちが満足できないのは、果たして手に入れなければならないものをまだじゅうぶんに持っていないからなのですか?と。どれほど手に入れたら満足し、幸せになったとわたしたちはいうのであろうか?と。
私たちの幸せ願望、もはやそれは願望というよりは、強迫観念といった方が適切かもしれません。この幸せ強迫観念は、いつも満足するための条件を私たちに要求してきます。私たちは、自分が幸せになるために進んで励んでいると思っていますが、実は、要求の方が私たちを、条件を満たすために駆り立てているのかもしれません。
最近「幸せ」のトレンドは、健康や環境問題に関心の高いライフスタイルだといわれています。心をくすぐられる言葉で、私も決して嫌いではない。しかし、むき出しの欲望を嫌悪しているかのようなこのようなライフスタイルも、その根にあるものは、お金と、都合の良い人間関係と、建康という自分に都合のいい条件を求めていることにかわりないのではないでしょうか。私たちが、幸せを求め続ける、そのすがたは時代とともに変化しているように見えます。しかし、根本の部分は何もかわりません。私たち自身が「苦しめ」られていると苦痛を感じるのは、幸せの条件が満たされていないからではなく、条件をもとめることで、「今」自分の生をささえているはたらきを見失っているからである、と清沢先生は言っています。そしてこのような私たちの「有相」、現在の生活の相(すがた)を、「依頼心」と照らし出し、本当の意味で私たちを支えている「いのち」に目覚めさせるものを真宗の教えとの出遇いに見いだされたのが清沢満之という方なのです。このたび御遠忌を迎えるにあたり、あらためて宗祖親鸞聖人の教えを身をもって生きられた清沢満之先生の恩徳を深く憶うことでございます。どうもありがとうございました。