ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤原 正寿(石川県 浄秀寺)
第4話 本当の豊かさとは [2006.9.]音声を聞く

おはようございます。本日も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話をさせていただきます。
少し前になりますが、辻信一という方が書かれた『スロー・イズ・ビューティフル』という本が話題になりました。直訳すると、遅いということは美しいということでしょうか。ともかく、いったん立ち止まって、自分自身の生き方を見つめる、もっとゆっくりと生きようではないかという、辻さんの提起にわたしも、共感する部分があります。本当の豊かさとは、忙しくすることでは、決して満たされるものではありません。
私たちが生きている現代という時代は、ある意味で非常に豊かな時代です。しかし、その豊かさという言葉の意味は、ほとんど経済的に満足するという豊かさということに置き換えても、あながち間違っているとはいえないように感じます。皆さんも感じておられると思いますが、経済的な豊かさとは、決してこれで十分満足ということが無い豊かさです。今より便利な商品が出ればそれを求め、その求めに応じてまた、新しい商品が次々と出されていきます。消費主義の社会というのは、「今に満足したら終わりだよ」というメッセージを与え続けてきます。そのなかで私たちは、限りなくスピードと効率を重視するようになりました。その結果、前回もお話ししましたように、人はひたすら忙しくなり、現に生きている「今」を大切に生きているそういう「今」に満足する生活を先送りにし、忙しくはたらき、より新しく便利なものを手に入れる生活こそが豊かな生活で、人生の生き甲斐であるかのような、人間の欲望によって作り出された仮想現実(バーチャルリアリティ)をある意味で私たちは生きているのではないでしょうか。バーチャルリアリティとは、一般によく言われるような、空想上の世界、例えば、ゲームの上で作り出される架空の世界ではなく、私たちの欲望が作り出している現代社会そのものを指すのではないかと私は思います。
このような欲望を追求する社会によって、その副産物として、数多くの環境問題や公害などの社会問題を生み出していることは、さまざまな形で指摘されています。しかしながら、先ほど紹介した辻信一さんは、他の多くの環境や社会の危機を指摘する人たちとは視点が少し違うのです。
その視点とは、単に環境の問題を指摘したり、その問題を乗り越えるためのテクニックを紹介するのではないという点にあると思います。そこで起こっている問題を、私たちの生き方にまで掘り下げて、具体的に示されておられるのです。辻信一さんは次のように言われます。「これまでの環境運動というのは、「森を護れ」「川を護れ」「動物を護れ」でした。しかし、これは非常におこがましいことではないのだろうか。果たして私たち人間に「森を守れ」などという資格があるのか。」と。
私たちはいつも、何か問題が起こるとその問題を取り上げ、原因を分析し、責任を追及します。しかし、環境問題を声高に叫ぶ前に、また、われわれが地球をどうやったら守ることができるのかということを考える以前に、環境破壊も、環境運動もその根本のところに、私たち自心の「我」、つまり自分中心の「おこがましい」考えがあることに気づかなければならないのではないでしょうか。私たちに、環境を守れなどという資格があるのかと、立ち止まって問うべきであるという辻さんの指摘に耳を澄まさなければなりません。
親鸞聖人の教えは、このような私たちの「自我」を照らし出してくださる教えです。親鸞聖人が自らに仏教を伝えてくれた先生の一人と仰がれている中国の善導大師は、「経教はこれを喩うるに鏡のごとし。」仏教の教えは、私たちにとって鏡のようなものであるといわれています。鏡とはものを映すものです。鏡のように、私たち自身を映し出すはたらきこそが、仏教の教えに出遇うということだと言われるのです。逆に言うと、教えに出遇うことがなかったならば、私たちは、決して自分の本当のすがたを見ることはできないということでしょう。豊かさを求め続けながら、いつも自分を正当化し、そのことによって今を生きることの大切さを見失っている私たち一人ひとりが自らの存在の意義を見つめる「本当の豊かさ」を取り戻すことが第一に大切なことなのではないでしょうか。

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