おはようございます。本日も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながらお話をさせていただきます。
少し前に、『納棺夫日記』という本を書かれた作家の青木新門という方のお話をお聞きする機会がありました。その中で青木氏が「近頃は、死ということをできるだけ隠そうとする。死にまつわるものが、家庭の中に一切無い生活が現代に生きるわたしたち人間の生活である。大人が死を隠してしまうから、子どもは、死とは何かが分からなくなる。」という内容のことをいわれたことが印象に残っています。
確かに現代の私たちの社会は、本当は、いろいろなことを知るための大切な縁となるべき事実や苦悩と正面から向き合うことをできるだけ避け、生活の中から見えなくし、排除していく社会だと感じます。その見たくないもの、見せたくないものの代表が、「死」ということなのでしょうか。青木氏によれば、今の子どもたちで、人の死(臨終)の場面に立ち会うのは、一割にも満たないそうです。
わたしたち人類は、誕生以来、ずっと悲しみや苦悩とともに歩んできました。しかし現代は、その苦悩と向き合う時と場所が奪われてしまっているのではないでしょうか。苦悩を感じさせないためのあらゆる装置、例えば、日々進歩する医療の技術や、刺激することを止めない娯楽などが、苦悩する私たちに先回りして準備され、苦悩を忘れさせてくれようとします。私たちが苦悩するのは、そのような最新の技術や楽しみを知らないためか、それを手に入れるだけの経済的ゆとりがないことに原因があると、問題のすり替えが行われているところに、現代特有の問題があるように、私は思います。
たしかに、子どもたちに悲しみや苦しみを与えない幸福というのは、親の愛情であるといえるでしょう。しかしながら本当に大切なのは、私たちが生きていく中で、決して避けることのできない、悲しみや苦しみに出会ったときに、その悲しみや苦悩と向き合い、他の人や自分の痛みを身をもって感じ、知ることではないでしょうか。もしそうであるとするならば、親の愛、大人の責任とは、そのことの大切さを自分の生きるすがた、生き方を通してきちんと伝えることにあるのではありませんか。私たち大人が大切にするものを通して、子どもは本当に大切なもとは何かを知るのです。
明治の仏教者清沢満之先生は、「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり。」といわれました。しかし、現代の私たちは、生のみを謳歌し、自分に都合のいい生活を作り上げていくことに、自らの人生を置き換えてしまったように思われます。私たちは、老いも若きも、だれもが、老いということ、病ということ、死ということを忌み嫌い、生活から遠ざけるようになってしまいました。しかしその一方で、老・病・死の陰におびえ、忘れよう、ぬぐい去ろうとしても、べったりと張り付いて離れることのない不安が、現代に大きな闇を作り出し、カルト的な宗教等を生み出しているのではないでしょうか。
清沢先生は、このような私たちのあり方を、「あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするもののごとく、その転覆を免るるあたわざること言(げん)を待たざるなり」、空に浮かんでいる雲のように、本当はその上に立つことなどできないものの上で芸を演ずるようなもので、ひっくり返ってしまうのは言うまでもないことである、と言われます。私たちが、老・病・死を遠ざけ、排除することで、楽しく、豊かであると思うような人生とは、決して本当の満足を与えるものではない。つねに外に向かって、よりよいものを求め続け、一方で排除したいもの、見たくないものの陰におびえ続ける人生でしかないと、清沢満之先生は言い切られます。このような、生のみに固執し、死におびえて、一生を将来のための保険や、担保のために費やしてしまうようなありかたを翻して、生と死を貫く「いのち」の願いに出遇うことの大切さを清沢先生は、親鸞聖人の教えから獲得されたのです。