ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤原 正寿(石川県 浄秀寺)
第3話 真宗と生活 [2006.9.]音声を聞く

おはようございます。本日も「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の テーマを念頭におきながらお話をさせていただきます。
かつて、明治から昭和を生きられ、真宗の教えを聞く道場を開かれ多くの生きた教学者、念仏者を生み出された安田理深という先生が、師として尊敬されてお られた、同じく近現代において真宗の教学の中心を担ってこられ、大谷大学の学長もされた曽我量深という先生の生活態度、生きざまについて、「赤表紙と、新 聞の間に生きられた人である」と評されたことがありました。この言葉は、極めて大切なことを私たちに教えてくださっているように感じます。「赤表紙」とは 浄土真宗の聖典のことです。これは、親鸞聖人の真宗の教えということ表現しているのでしょう。また新聞とは文字通り新聞、つまり私たちが生きている現実生 活の中でのさまざまな日常の出来事を表しているのだと思います。この2つの間に身を据えられた生涯を生きられたのが、曽我量深という方であったと、安田理 深という方は仰がれたのです。
この言葉が伝えていることは、親鸞聖人の教えについて学ぶつまり、聞法するということと、普段の生活とが別々に切り離されたものであってはいけないとい うことです。教えを聞いても、それはそのとき限り、その場を離れればさっさといつもの生活に戻ってしまうのでは、親鸞聖人の教えを聞いたことにはならない のです。また逆に、日常の生活つまり、自分にとって都合の良いものを求めるという関心で、仏教の教えを聞いても、それはほんとうの意味で教えを学んだこと にはならないのです。私たちの現代社会は、このよううな、日常の生活の中で、その生活を照らし出す鏡を持つという、曽我先生のような生き方を見失ってし まっているのではないでしょうか。
現代の私たちの生活を一言で表現すると、忙しいということに尽きるのではないかと思います。景気がいいときには、今のうちに忙しくがんばって働いておか ないと、この先の安心のために忙しくはたらき、景気が悪くなると、今度はなおさら追い立てられて、忙しくなる。先日あるデパートに買い物に行ったときに気 が付いたのですが、お店に入れば、「本日はお忙しい中、当店にお越しくださいましてまことにありがとうございます…」というアナウンスが必ずと言っていい ほど流れます。まるで忙しくしていることこそが大切でなのであって、忙しくないようでは、充実した人生を生きているとは言えない、というような雰囲気が醸 し出されているように感じます。
しかし、忙しいことは、本当にそんなにいいことなのでしょうか。自分自身の生きかたとは何か、生きているとはどういうことなのか、いのちの意味を問うこ とを忘れて、自分たちの欲望を満たすことを忙しく追求することこそが、幸福な人生をもたらすと信じていること、また信じ込まされているところから、逆に現 代のさまざまな問題が噴出しているのではないかと私は感じています。そして、この内容は、前回尋ねましたように「空過」空しく過ぎるという事柄として親鸞 聖人は頷かれたことです。豊かなものに囲まれながら、
いつも不安で、今に安心を持つことができない、そういうくらさがいつもつきまとってるのです。
親鸞聖人の「正像末和讃」には、

五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
(『真宗聖典』509頁)

と言われています。日本には多くの宗教があり、その中にたくさんの仏教徒がいます。私も仏教徒であり、真宗の門徒です。外見は、仏教徒のすがたをしていな がら、しかしその一方で、仏教の教えよりももっと大切なものを「帰敬」している、帰敬とは、大切に敬っているという意味ですから、つまり、生活の中心に据 えてしまっているということです。そのことを宗祖親鸞聖人は、悲歎なさっておられるのです。その「帰敬」の中身とは、先ほどお話ししましたように、一言で 言えば、自分の欲望の追求です。仏教の教えでも自分の都合を実現するために利用している、仏教の教えまでも自分の都合を実現するために利用している、これ を親鸞聖人は「外道」、仏教を学びながらも実態は、道を外れているありかたであるといわれました。願い事を叶える道具として仏教を利用しようとする私たち のありかたが、「外道」として照らされ、何一つ間に合うものが無いことを知らせて貰うのが、教えを聞く生活ではないでしょうか。

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