ラジオ放送「東本願寺の時間」

内藤 円亮(長崎県 光西寺)
第1話 いのちとは何か [2006.10.]音声を聞く

おはようございます。
2011年にお迎えする宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマ、「今、いのちがあなたを生きている」について、6回にわたってお話させていただきます。この「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを繰り返し声に出してみて感じましたことは、「いのち」とはいったいどういうことなのだろうか、ということでした。折に触れて「いのち」という言葉を耳にし、また、口にもしています。特に、私自身、子どもたちとともにお念仏することを大切な課題として、お寺の子ども会などで「いのちの尊さ」を語りかけているつもりでいました。子どもたちにほとけさまの教えを語り伝える児童教化に携わる人たちの中で、「いのち」は重要なキーワードとしてこれまで語り合われてきました。これからも変わることはないと思います。しかし、あらためて「今、いのちがあなたを生きている」というテーマと向い合った時、結局、私自身、「いのち」ということがよくよく分かっていないことが知らされたような気がいたしました。そこで、「いのち」ということの意味を確かめていくことから、お話を始めたいと思います。
「いのち」という言葉が大きな広がりを持って、さまざまな意味で使われていることはよく指摘されていますが、「いのち」という言葉を聞いてまず思い浮かぶのは、「わたしのいのち」ということです。つまり、「生きている」ということです。しかし、わたしたちは生きていることをことさら問題にすることなく、毎日の生活に追われているのが実際ではないでしょうか。そういうわたしたちが「いのち」を目の当たりにするのは、「いのち」が始まる時と「いのち」が終わる時、つまり、いのちが「生」と「死」に直面した時ではないでしょうか。
1997年に公開された宮崎駿監督の『もののけ姫』という映画があります。とても話題となり、いろいろなことを考えさせられるすばらしい作品だと思います。わたしの子どもたちも一時期はビデオを何度も何度も見て、たいへんなお気に入りでした。細かな内容の説明はできませんが、ラストシーンで、生と死をつかさどるシシ神が人間によって首を捕られ、シシ神の森も死んでいきます。しかし、シシ神が倒れた跡から草木は生い茂り森が蘇ります。その森を見て「シシ神さまは死んでしまった」と言う主人公のもののけ姫サンに対して、もう一人の主人公のアシタカは、「シシ神さまは死にはしないよ。いのちそのものだから。生と死と2つとも持っている…。わたしに生きろと言ってくれた…。」と語ります。
私は、「生と死と2つとも持っている」という言葉がとても印象的でした。いのちには生と死の二つがある。当たり前と言えば当たり前のことです。いのちあること、生きていることを当たり前としている時には何も感じないけれども、「生」あるいは「死」ということに直面した時、「いのち」が強く感じられ、深く考えさせられるのだと思います。子どもの誕生。大切な人の死。また、自らの死への直面。人に限らず、可愛がっていたペットの死。あるいは、身近な自然の中にある動植物の生と死。そのような「生」と「死」に触れていくことによって、「いのち」がわたしたちの目の前に現れ、「いのち」を問うきっかけをわたしたちに与えてくれるのではないでしょうか。
そのような「わたしのいのち」について、真宗大谷派教学研究所所長の小川一乘先生は、「生死するいのち」と押さえておられます。「しょうじ」とは「生き死に」という字を書きます。そして、「生死するいのち」は「縁起するいのち」であると教えてくださっています。つまり、「わたし」のなかに「いのち」という何らかの実体的なものがあるのではなく、さまざまな条件との関わりの中で成り立って存在している、その状態を「縁起するいのち」と言うのです。あるのは「いのち」という言葉に過ぎないのです。
そうしますと、いのちとは何か、「いのち」を学ぶということは、具体的な「生」と「死」から目を逸らすことなく、また、その「生」と「死」に包まれて存在する「わたし」を成り立たせているさまざまな関わりに目を向けていくことと言えるのではないでしょうか。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回