おはようございます。
前回、「いのちをいただきます」と題してお話し、最後にあるご住職から教えていただいた言葉を紹介いたしました。その時に、もう一つ心に残っている言葉がありますので、そのことをしばらくお話させていただきます。
数年前、子どもたちの大会でそのご住職がお話をされたのですが、まず驚いたのは60人ぐらいの子どもたちを相手に1時間近くお話されたということです。私など、毎月一回の子ども会で数人の子どもの前に立ち、お話をすることが嫌になることもしばしばです。それは子どもの側に問題があるのではなく、こちら側が子どもたちに語りかける言葉を持っていないからなのです。そのご住職は、これから話される内容を手際よくまとめて、子どもたちの集中力が途切れると、手遊びや歌を挟みながら、常に子どもたちの注目をきちんと自分に向けて、1時間ほどお話をされたのです。それには技術と経験をぜひとも必要とするもので、頭で分かっていても簡単にできることではありません。その場に居合わせたこと自体が、私にとって大きな学びでありました。その時に、前回お話したことを教えていただいたのです。
もう一つ印象的だったのが、「いのちを拝む人間となろう」という言葉でした。そのご住職は、こちら側が掲げた「ほとけのこどもになります」というテーマを承けて、「ほとけのこどもになる」とはどういうことなのかをお話され、「いのちをいただきます」というお話、あるいは前回紹介した「合掌するのは、ほとけさまにお参りする時と食事をする時の二通りだけ」というお話であったりしながら、「いのちを拝む人間となろう」という言葉を出されたのです。「いのちを拝む」という言葉は、私にはあまり聞き覚えがなく、とても新鮮な印象を持ちました。何気ない言葉ですが、「いのちを大切に」、「いのちは平等」などよりも、とても実感のわく言葉でした。
普通、「拝む」という言葉は、手を合わせて礼拝する、ほとけさまを拝むという意味で使われます。つまりはお念仏するということですが、そのご住職は「いのちを拝む」とおっしゃられたのです。これまで申し上げてきた言葉遣いからしますと、「阿弥陀のいのち」を拝む、ということになります。ということは、「わたしのいのち」を成り立たせている「見えないいのち」を拝む。「わたしのいのち」と決して無関係ではない数限りない「いのち」を拝む。そして、「わたしのいのち」を拝む。そのような、「いのち」に手を合わせて拝む姿はとても尊いことだと思います。これは、前回お話ししたことの繰り返しになりますが、「わたしのいのち」といえるものは一つとしてなく、自分以外の「いのち」を奪わずには生きていけないという「わたしのいのち」の事実、「わたしのいのち」にまでなってくれたたくさんの「いのち」の事実、すべては与えられた「わたしのいのち」であったと深く頷いていく、そういう姿を「いのちを拝む」と言うのだと思います。
このように考えてまいりまして、あらためて感じられたことが一つあります。それは、前回お話した「いのちをいただきます」ということです。「いただきます」とは、「ありがとう」という感謝の思いと「申し訳ない」という慙愧の思いが交錯しながら、「いのちをいただきます」と手を合わせ頭を下げていくことでしょうが、そのことにより、逆に、「わたしのいのち」が自分以外の「いのち」によって与えられたものであったのだと、いただきものの「わたしのいのち」であったのだと、深く頭が下がっていく。そこに、「いのちを拝む」ということの姿が窺われることであります。
いただきものの「わたしのいのち」。『歎異抄』という書物に「如来よりたまわりたる信心」という言葉がありますが、そういうたまわりものの「わたしのいのち」。そうであれば、いただいたものをしまいこんだまま、忘れてしまってはたいへん失礼な話です。その「いのち」をどのように生かしていくのか。それは、いただいた者に与えられた大きな宿題だと言わなければならないと思います。