おはようございます。
これまで、「いのち」ということについて、私なりの受け止めをお話してまいりました。そのなかで、「わたしのいのち」は多くの「いのち」との関わりの中で生きている、という趣旨のことを申し上げました。このことを承けて、もう少し具体的なところからお話していきたいと思います。
ある書物を通して、「いただきます論争」なるものが雑誌や新聞で話題となっていたことを知らされました。ことの発端は2005年の秋頃に、あるラジオ番組で「給食費を払っているのだから、給食の時間にうちの子どもに〝いただきます〟を言わせないでほしい」と、小学校へ申し入れをした親からの投書を紹介したことによるそうです。そこで、インターネットで検索して拾い読みしてみました。いろいろな意見がありましたが、多くはそのような投書に対して否定的で、論争というほどのものでもないと感じました。「作ってくれた人に感謝の気持ちを表すのは大切なことだ」、「外食ではお金を払っているのだから、むしろお店の側が感謝すべきだ」、「所詮マナーの問題だから目くじらを立てるほどでもない」、「食べ物に感謝して生き物に感謝していのちをいただきます」、などなどです。
この話題で出てきた「いのちをいただきます」という言葉は、私なども小さい頃に聞いてきた言葉ですし、現在でも子どもたちの集まりでよく語りかけられる言葉です。わたしたちは、肉や魚の「いのち」、野菜の「いのち」をいただいて生きているのだから、食べ物を、「いのち」を粗末にしてはいけないよ、ということです。それは、わたしたちが生きていく上で欠かすことのできない「食事」という行為を通して、他者の「いのち」を見つめていくことと言えるでしょう。前回お話した点からすると、「わたしのいのち」は、自分以外のたくさんの「いのち」によって支えられているのだ、空間的な横の「いのち」のつながりの中にある「わたしのいのち」なのだ、ということです。
しかし、あらためて考えてみますと、「いのちをいただきます」ということは、「わたしのいのち」は他の「いのち」を奪ってしか生きられないということです。ベジタリアンであっても例外ではありません。つまり、食事をいただくというわたしたちが「いのち」をつないでいく行為は、仏教における最も基本的な戒である不殺生戒、生き物を殺してはいけないという教えを犯し続けていくことに他ならない、ということです。生きていくこと、「いのち」を育み養うということは、どこまでも他の「いのち」を奪い続け、その上に成り立っている。これが仏教における「いのち」への眼差しだと思います。ですから、「いのちをいただきます」とは、単に「いのち」に感謝するというのではなく、そこに「申し訳ない」という思いを深く合わせ持つ言葉だと言わなければならないと思います。
さて、「いただきます論争」で、「特に外食では合掌まではしないけれど、『いただきます』は言うようにしています」という意見がありました。私としては、むしろ、食事をいただく際に合掌することの方が大切だと考えています。
これは、あるご住職がお話されていたことですが、「合掌するということは、ほとけさまにお参りする時と、食事の時にしかしないのですよ。この2通りだけですよ」という趣旨のことを教えていただきました。「なるほどそうだな」と思いながら、私がその時に感じましたのは、「お参りする時と食事の時の2通りしか合掌をしないということは、この2通りの合掌というのは同じことではないのか」というものでした。わたしたちが食事をいただく時に合掌するということは、要するに、ほとけさまにお参りするということ、お念仏することと同じ意味を持つのではないのか、と考えるようになりました。つまり、「いただきます」は「なむあみだぶつ」である、と位置づけてみることができるのではないでしょうか。
食事をいただく際に合掌して「いただきます」と言うことは、単に形式や礼儀の問題ではなく、「わたしのいのち」がたくさんの「いのち」によって支えられているという、「いのち」の質を問いかける大切な行為ではないでしょうか。