ラジオ放送「東本願寺の時間」

内藤 円亮(長崎県 光西寺)
第6話 涅槃するいのち [2006.11.]音声を聞く

 おはようございます。
 私は、2006年の夏、京都において、三重県桑名の池田勇諦先生とご一緒に勉強させていただくご縁をいただきました。私にとりまして初めての経験であ り、それこそ「わたしのいのち」となって、これからの私の学び、僧侶としての歩みを支える、このように言うことができるような学びでありました。
 そこで、池田先生より「涅槃するいのち」という言葉をいただいたのです。これまでの放送で、「生死するいのち」(「しょうじ」とは「生き死に」という字 を書きます)、「縁起するいのち」、「見えるいのち 見えないいのち」、「阿弥陀のいのち」、「いのちをいただきます」、「いただきもののいのち」、「い のちを拝む」、「いのちの呼びかけ」などなど、「いのち」という言葉をさまざまに表現してきたわけですが、「涅槃するいのち」という言葉は本当に初めて聞 く言葉でした。
 「涅槃」とは、仏教におけるさとりを表わす言葉であり、ロウソクの炎が吹き消された状態に譬えられる静かな安らぎを意味します。親鸞聖人も、浄土真宗に おけるさとりを表わす言葉として、「涅槃」という考え方をとても重視しておられます。枚挙に暇がありませんが、例えば、東本願寺で11月21日から28日 までお勤めされる御正忌報恩講の和讃に

念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなわち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし

とあります。そして、涅槃をさとる「時」の問題について、親鸞聖人は、

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。

とおっしゃられています。池田先生は、この言葉を引用された後、次のように述べられています。

そうした「大涅槃をさとる」ときを、人間のいのちの終わるときと言う。それは決して死んでさとるのでもなければ、死んだらさとるのでもな い。でとか、だらとかの分別の介入をゆるさない。ということは、親鸞の関心事が死後観ではなく、死観であったことを語る。

「しごかん」とは、「生き死に」の「死」、「前後ろ」の「後」、「観察する」の「観」という字を書き、死んでから後のことを考えていくことです。「しか ん」とは、同じく「生き死に」の「死」、「観察する」の「観」という字を書き、「死ぬ」ということそのものを問題にしたということです。要するに、死後、 つまり死んだ後の問題として、涅槃のさとりを考えていくのではなく、「死」そのものの意味を涅槃のさとりと位置づけたということです。わたしたちは、「死 んだらどうなるのだろうか」、「亡くなったあの人はどうしているのだろうか」という不安な思いからどうしても抜け出すことができません。そういう不安な思 いの延長線上に仏教の「さとり」の問題を分別していくことを、池田先生は注意してくださったわけです。そうではなく、わたしたちにとって、必ず訪れる 「死」とはいったいどういう意味を持つのか、そういう視点から捉えていかなければならないのでしょう。
 「わたしのいのち」は「生死するいのち」、特に「死するいのち」であるという見定め、「わたしのいのち」は「縁起するいのち」であるがゆえに「死」は必 然する、という見定めから、「わたしのいのち」は「涅槃するいのち」である、と受け止めていく。それは、わたしたちの思いや分別を超えた厳粛な事実なので す。それは、「阿弥陀のいのち」によって成し遂げられる厳然とした事実なのです。
 これまで、6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマに関して、「いのち」ということを軸にして お話してまいりました。振り返ってみますと、その内容は、これまで「いのち」をさまざまに語ってくださった方々の言葉を紹介させていただいたものでした。 それは、わたしが出会うことのできた「いのち」を語る歴史であった、と申し上げてよいかもしれません。最近、「今、いのちがあなたを生きている」という テーマを見て、「なんて、かっこいい言葉なんだろう!」とおっしゃられた方にお会いすることができました。
 このたび、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマが示されたことによって、「いのち」を語り継いでいく新たな歴史の一ページが開かれたのだと 思います。
 これで、私のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

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