ラジオ放送「東本願寺の時間」

平野 喜之(石川県 淨專寺)
第1話 今、いのちがあなたを生きている [2006.11.]音声を聞く

おはようございます。今日から6回にわたって宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけに応答しつつお話をさせていただきます。
皆様はこのテーマを聞かれたとき、どのような感想を持たれましたか?「あなたがいのちを生きている」なら分かるけれども、「いのちがあなたを生きている」はちょっと分からないなあという感想を持たれたのではないでしょうか?
先日、あるお寺の前を通りましたら、「どう活かす あなたのいのち」…この「いかす」は生活の「活」のほうですが…という掲示板の言葉が目に入りました。私にはこちらのほうが、よく分かるテーマのような気がしましたが皆様はいかがですか。「どう活かす あなたのいのち」とは「どのように生きれば、あなたの人生は充実したものになるか、考えてみませんか」ということでしょう。それは生き方の問題、つまりいのちに対するHOW、つまり「いかにして」という問いかけです。それに対して「今、いのちがあなたを生きている」とは何を呼びかけているのでしょうか。私はこの呼びかけには、我々が普段、自分のものとして当たり前にそれを生きているその「いのち」自身に対する深い問いかけ、つまり「いのち」に対するWHAT、つまり「本当のいのちは何であるか」という問いかけが秘められていると思います。果たして「いのち」とは何でしょうか。「私のもの」なのでしょうか?
私にはつい最近まで、10年以上、共に学び共に歩んできた友人がいました。しかし、いろいろな誤解が重なって、喧嘩別れのような形になりました。先日、彼が自転車でこちらに向かってくるのが見えましたので、私なりに笑顔を作って挨拶したところ、一応彼も軽く会釈しましたが、自転車を止めることなく横を素通りしていきました。そのとき最後に彼と電話で話したときのことを思い出しました。「俺の人生やろ。俺の自由にして何が悪いんだ!」と、彼は泣きながら言いました。今振り返って考えると「彼には彼の生き方があったんだ。それを認められなかった私は子どもだったんだなぁ。」という反省も出てきますが、しかし、やはりそれでも「俺の人生」「俺の自由」という言葉に今でも違和感を感じます。それどころか、そういう言葉を思い出すと、「彼の人生、彼のわがままのために私は利用されたのか。何を勝手な。」という怒りの気持ちでいっぱいになります。しかし、それはおそらく彼も私に対してそう思っていることでしょう。「バラバラでいっしょ」といわれる世界が同朋社会だとすると、私と彼の世界はバラバラでバラバラでしかありませんでした。真宗大谷派では1998年(平成10年)に蓮如上人500回御遠忌を迎えるにあたって、「バラバラでいっしょ」という言葉で真宗の教えを現代に表現しようとしたのですが、その意味を私が端的に言うとすれば、何よりも大切なことは「自分に対する他の人をありのまま受け入れる」ということであります。ある先生は同朋社会の反対を敵味方社会と教えてくださいましたが、まさに彼と私の関係は敵味方関係、都合のいいときは味方、都合が悪くなれば敵という関係でしかありませんでした。そしてその関係を作っている原因こそ、「いのちは私のもの」という見方ではないでしょうか。では、どこで同じいのちを生きているといえるのか。御遠忌テーマの呼びかけに聞いていかねばなりません。
また、御遠忌テーマでもう一つしっかり聞いていきたい言葉は「今」です。生きているのはこの一瞬一瞬の「今」でしかないにもかかわらず、頭の中はいつも過去のことを思っては後悔していたり、未来のことを思っては空想にふけっていたりしています。つまり、「今」を生きているにもかかわらず「今」を忘れて生きています。そんな私にこのテーマは「今生きているいのちをあなたは忘れているのではないか」という叱責の声として響いてきます。しかしそうかといって、このテーマは「過去と未来を思うことをやめて今についてだけ思え」と無茶なことを呼びかけているわけではありません。過去を後悔し未来を空想する今ではなく、過去のすべてが意味をもってよみがえってきて未来に向けて意欲が噴出してくる、そういう時を開く「今」を生きていますかと呼びかけているのでしょう。これからあと5回、皆様と共にこのテーマの呼びかけを聞いていきたいと思います。

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