ラジオ放送「東本願寺の時間」

平野 喜之(石川県 淨專寺)
第5話 今、いのちがあなたを生きている [2006.12.]音声を聞く

おはようございます。今日もまた、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけに応答しつつお話をさせていただきます。
前回は、14年前、自らいのちを断った友人を思い出しながら、いのちの輝きは「見捨てられている」と感じられるとき覆われ、「見捨てられていない」と感じるときよみがえるものだということをお話しました。このことを思い出しながら御遠忌テーマの呼びかけに再び耳を傾けますと、今、私がまさにそれを生きているそのいのちの背景は無限であり、それは私がどんな人間であろうと無条件で私という存在を成り立たせているのだと感じられてきます。そう感じられたとき、こんななんの役にも立たない自分なら他人からあるいは自分自身からも見捨てられて当然かもしれないという見捨てられる恐怖から、はじめて自由になるのではないでしょうか。
今から3年前、私は淨專寺でお世話になった祖母がなくなった日に肺炎がひどくなり、緊急入院しました。私はお世話になった祖母のお葬式に出られないということや、その準備のお手伝いが出来ないということが気に懸かりながら、病院で絶対安静の状態で寝ていました。入院したばかりのときは当たり前に出来ていたことも出来ないので、私は精神的にも参りました。寝ようと思えば痰がのどに絡み吐き出すまで気になって寝られないし、ずっと点滴したままの格好だから寝返りも打てない。そういったとき、ときどき様子を見に来てくれる看護婦さんが「大丈夫ですか」と優しく声をかけてくれると、それだけで状態は苦しくても楽に感じられました。そのとき「有難うございます。おかげさまで、すこしよくなっている気がします。」と、健康なときの私からは出て来そうにない感謝の言葉が自然に口から出てきました。その看護婦さんは照れくさそうに「そんなに感謝されるようなことはしていませんよ。それに仕事ですから。」とおっしゃられました。その「仕事」という言葉を聞いて、私はふとひらめきました。「そうか、この看護婦さんが何も出来ない私の世話をしてくださるのが仕事だとすれば、それに対して感謝の気持ちを表現するのも仕事かもしれない。その証拠に、看護婦さんは喜んでくださっているじゃないか」と。
最近、ある本で「仕事というものは生かされているお礼にするものだ」という晩年には真宗大谷派の宗務総長という重責をつとめ、人々から念仏総長といわれた暁烏敏先生の言葉に出会いました。健康なときは自分の実力で生きていると思っていますから、生かされているということはなかなか感じることはできませんが、病気をしますと、いくらかは感じることができます。そのときに、たしかにお世話をしてくださっているかたになにかお礼をしたくなりますね。そしてまた、したくなるからするのですが、道理からいってお世話になったのだからお礼はすべきものです。体が動かなくても、感謝の気持ちを表現するということはできます。「したいこと」「すべきこと」「できること」が一致する行為、暁烏先生はそれを「仕事」と呼ばれているのではないでしょうか。私を生かしているいのちの背景を知ったとき、いのちは強制ではなく自然にそのお礼に「仕事」をしたくなるものではないでしょうか。私は肺炎で入院したため、祖母のお通夜やお葬式のお手伝いはおろか、参列することさえできませんでした。そういった意味では、お世話になった方に対する申し訳なさを感じました。しかし仮にお葬式に参列できたとしても、それでご恩を返したとはとてもいえないでしょう。
私の存在の成り立ちの背景に無限のおかげさまが感じられてくるとき、生かされているお礼は無限にすべきだという感情が湧いてきます。しかし、実際にお礼出来ることはほんのわずかです。そう思うと、頭をたれるほかはありません。と同時に、たとえほんのちょっとでも「仕事」ができたとき、たとえば看護婦さんに「有難う」とお礼をいうことができたとき、体に喜びが感じられます。「今、いのちがあなたを生きている」というそのいのちが充実する「今」とは、そういう「今」ではないでしょうか。

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