ラジオ放送「東本願寺の時間」

平野 喜之(石川県 淨專寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2006.12.]音声を聞く

おはようございます。今日もまた、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけに応答しつつお話をさせていただきます。
前回は、「どう活かすあなたのいのち」というテーマに対して、「どのように生きても人生が充実しない私」であることが明らかになったとき、我々が当たり前としていること、無意識に前提としている立場を問い直す呼びかけとして「今、いのちがあなたを生きている」というテーマがあるのではないかということをお話しました。特に「今」という言葉は、過去を悔やみ未来を空想している我々に「今、ここに生きている」ということにしっかり視線を注ぐことを促しているように思います。
先日、淨專寺で報恩講を勤めさせていただきました。報恩講の最中は非常に忙しいのですが、その合間に出される食事、特にお漬物とお茶のおいしいかったこと。お漬物を食べながら、ふとある問いが心に浮かびました。それは「このお漬物やお茶はたしかにおいしい。それは誰のおかげだろうか。」という問いです。誰のおかげかというと、明らかにお漬物を作ってくださった方の、あるいはお茶を入れてくださった方のおかげに違いありません。しかし、お漬物やお茶そのものは大自然の恵み、それを育ててくださった方の恵みでしょう。そう思ったとき、私の存在を支えている無限の空間の広がりを感じました。そういう感じはときどき受けるのですが、今回はそれだけにとどまりませんでした。次に「しかし、いくらおいしいお漬物やお茶を入れてもらっても、それらをおいしいと感じる味覚がなければ意味がないだろう。この味覚は誰のおかげだろうか。」という問いが浮かんできました。この問いを解くためにちょっと極端な空想をしてみました。「もし、私が植物だったら、お漬物は食べ物ではなかっただろう。もし、私が魚に生まれてきたら、お茶は飲み物ではなかっただろう。」と。荒唐無稽な空想ですが、そう空想したとき、私という存在を人間として生み出してきた無限の時間の深まりを感じました。報恩講の忙しい中で、ただお漬物とお茶をおいしくいただいたというだけのなんでもない出来事でしたが、忙しい合間にもなにか豊かな経験をしたような気がしました。
また報恩講中、ある歌手のコンサートがありました。そのコンサートの最後にその歌手に花束を渡す役割として小学生たち5、6人が待機することになり、私もその小学生たちといっしょに待機することになりました。待機するといっても、ほんの10分も静かにしていられないヤンチャざかりの子どもたちです。コンサート中にもかかわらず、走り回って囲炉裏に足を突っ込んであたりを灰だらけにしたり、覚えたてのヨサコイソーランを踊りだしたり、机に落書きを始めたり、挙句の果ては喧嘩を始めたりで、騒ぐたびにコンサートに集中したい大人たちに注意をうけたり冷ややかな目で見られていました。私も、何度も静かにするように促す努力をするのですが、全然いうことを聞いてくれません。そのとき、「ああ、自分も小学校のときはこうだったなあ」と自分の過去を思い起こしました。そして、その私がいつの間にか注意するものになっているのが不思議な気がしたと同時に、いろんな人たちに声をかけていただき注意していただいたおかげで今の自分があるんだなあと感じました。それは思い出せるおかげさまですが、たとえば赤ちゃんのとき母親の乳房を求めたり、おなかがへったら泣いたりすることも、声なき声、本能の声に導かれてのおかげさまでそうしたのではないでしょうか。
「今、ここに生きている」ということに視線を注いでみれば、決して「いのちは私のものである」とはいえないことに気づかされます。それどころか、これほど無限のはたらきによって成り立っているいのちを私のものだとすることは罪なことではないでしょうか。私にはそう思われてなりません。

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