ラジオ放送「東本願寺の時間」

平野 喜之(石川県 淨專寺)
第2話 今、いのちがあなたを生きている [2006.12.]音声を聞く

おはようございます。今日もまた、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけに応答しつつお話をさせていただきます。
前回は、このテーマが「あなたがいのちを生きている」ではなく、「いのちがあなたを生きている」という表現になっていることの不思議さについて触れ、同時にあるお寺の掲示板の言葉「どう活かすあなたのいのち」…この場合の「いかす」は生活の活のほうの字ですが…こちらのほうが分かりやすいということをお話しました。さらに「いのちがあなたを生きている」のほうはいのちに対するWHAT、つまり「本当のいのちとは何か」、「どう活かすあなたのいのち」のほうはいのちに対するHOW、つまり「いかに」という問いかけを含んでいるのではないかということもお話しました。なにげなく使っている「生活する」という言葉の中には、いのちに対するWHAT(なに)とHOW(いかに)の問題を孕んでいるということを、私はこの2つのテーマから教えられました。そう教えられたと同時に、私には「いのちの私」という表現を是とすれば「私のいのち」という表現が非となり、「私のいのち」という表現を是とすれば「いのちの私」という表現が非となる、つまりどちらかが間違っていてどちらかが正しいように思っていました。
ところが先日、ある学習会でこのことを話したところ、先輩が次のような指摘をして下さいました。「いのちがあなたを生きていることにうなずけなかったら、活き活きとしたいのちを生きられないんじゃないかな」と。私はなるほどと思いました。どちらが正しいテーマかというのではなく、いのちに対するHOWの問題が突き詰められ行き詰ったときに、WHATの問題を問わざるを得なくなる。そしてWHATの問題が解けたとき、はじめてHOWの問題が解ける。問題を解いていくのに順序があるんだなあということを先輩の指摘に導かれて知ることができました。
たしかに、自分に与えられた人生を充実したものにしたいと考えない人は誰もいないでしょう。ただ、それがなかなか自分の思ったように充実してこない。「どう活かすあなたのいのち」と問われれば問われるほど、どう活かそうとしても人生が満たされないという事実が浮き彫りになってくる。そのときにはじめて、自分の当たり前としていること、自分が無意識に前提している立場が問われてくるのではないでしょうか。「どのようにすれば、私の人生は充実したものになるのだろうか」と考えているその自分自身の立場に大きな問題があるのではないか、と。この「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけに虚心に耳を傾けると、そのテーマにうなずけない自分の立場が問われてくるのではないでしょうか。そういった意味では、このテーマが分からない、なにか不思議なテーマだなあという疑問こそが大事なことではないでしょうか。
それにしても、人生を充実させたい、そのためにはどうすればいいかといういのちに対するHOWの発想ではどうしてこの問題は解けないのでしょうか。御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の呼びかけに耳をすませますと、私には「今」という言葉が響いてまいります。我々は、どうすれば人生が充実するのかということを問題にしているとき、私は今ここに生きているということをすっかり忘れて、いのちそのものから視線をそらして、空想の未来にうわすべりして、そういう問題を考えているのではないでしょうか。御遠忌テーマはそういう我々に「あなたは今、生きているのですよ。その生きているということを当たり前にして人生の充実ということを考えるのではなくて、もう一度今生きているということに視線を注いでください」と呼びかけているのではないでしょうか。「いのちの充実という前に、今ここに生きているいのちそのものに目を向けよ」と。次回からその呼びかけに応答しつつお話をしたいと思います。

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