ラジオ放送「東本願寺の時間」

平野 喜之(石川県 淨專寺)
第6話 今、いのちがあなたを生きている [2006.12.]音声を聞く

おはようございます。私がお話をするご縁は、今日で最後になりました。「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマの呼びかけに身を据えながら今日まで5回にわたってお話させていただきました。
私はこの呼びかけによって、報恩講のとき頂いたお漬物やお茶のおいしかったこと、自らいのちを断った友人との思い出、病気をしたときに感じたことなど、すべてが「いのちの真実」を教えてくれることとしてよみがえってきました。そしてあらためてこのたび気づかされたことは、自らいのちを絶った友人の「有難うございました。ごめんなさい。」という最後の言葉をまだ私自身受け止め切れていないということです。友人がなくなってからずっと、私は自分のせいでこうなったのではないかという考えから逃れることができず苦しんでいました。そのとき、そばにいらっしゃったある先生が私に「有難うございましたという言葉をしっかり聞かなければならないではないか」と言われました。肺炎になったとき、お世話になった方に体が動かせないながらも自然に「有難う」という言葉が出たように、その友人ももう生きる気力はすっかり失われたけれども、それでも生かされてきたお礼をなんとか表現したかったのかもしれません。それはその友人の、人間として生まれてきた最後の「仕事」だったのでしょうか。
それにしても、今もしその友人が生きていたら、あるいはその友人と同じようなつらさを今味わっている人がいたとしたら、「今、いのちがあなたを生きている」という呼びかけを共に聞こうと声をかけたい。そして、たとえ誰に認められなくても、あるいは自分でさえも自分を見捨てたいような感情に襲われたとしても、「今ここに生きている」ということに無限の背景を感じられるなら、無条件に生かしてくれている用きに気づくなら、必ず生きていけることを共に聞き開きたい。無限の広がりと無限の深さを背景にもついのちを価値のないものと評価して見捨てようとしている傲慢さの前に共に頭をたれたい。このように思います。
たしかに、我々は誰かに認められるとうれしいし、生きる意欲が湧いてきます。しかし、認められるといってもその内容は有限な能力であり有限な業績でしょう。その有限な能力・有限な業績を誰かと比較して、あるときは自信を失って生きる意欲をなくしたり、あるときは自信をつけて誇ったりしているのが我々の姿です。その有限な能力・有限な業績を自分だと信じている立場で「どのようにすれば自分の人生は充実するか」という問題を解こうとすれば、少しでもその有限な能力を磨いて有限な業績を積み上げていこうということになります。しかし、どれだけ積み上げても満ち足りないのが事実でしょう。そういう行き詰まりを通して御遠忌テーマの呼びかけを聞けば、「私のいのち」と無意識に信じている立場が問われてきます。そして、御遠忌テーマを通して「いのちとは何か」と問われるとき、つらかった経験、無駄だと思っていた経験がいのちに無限の背景があることを教えてくれる経験としてよみがえってきます。いのちに無限の背景があることが教えられ感じられてくると、有限であると信じていた私の能力は実は無限に支えられていたことが感じられ、有限と有限を比べて一喜一憂していたことの愚かさが知られてきます。それと同時にまったく質の違う愚かさが感じられてきます。いのちを支えてくださっている無限の用きの一つ一つにお礼をしたいのは自然の感情ですが、有限の能力で無限にお礼をかえすことはできません。原理的に不可能です。そういう愚かさを知ったとき、はじめて頭が下がります。しかし、すべてにお礼を返せなくても、生かされているお礼に出来る「仕事」、「したいこと」「すべきこと」「できること」の一致する行為は与えられた状況がどんな状況であってもかならずあるはずです。私は「無限他力、いずれの処(ところ)にか在(あ)る。自分の稟受(ひんじゅ)においてこれを見る、自分の稟受は、無限他力の表顕(ひょうけん)なり」という「歎異抄」の教えを明治という時代に身をもって生きた清沢満之先生の言葉を想い起します。無限他力の表現として自分が頂いている「今、このいのち」に目覚めるとき、そのとき人ははじめて、生まれた意義と生きる喜びに満たされるのではないでしょうか。どうも有難うございました。

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