ラジオ放送「東本願寺の時間」

黑萩 昌(北海道 法誓寺)
第1話 今、いのちがあなたを生きている [2007.2.]音声を聞く

おはようございます。
今回から6回に渡って、「今、いのちがあなたを生きている」という、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「いのち」について、感ずるところをお話させていただきたいと思います。
学校内でのいじめや、家庭内での虐待、そして、そこから起こってくる子どもたちの自殺や、親子間、友人間の殺人事件などが頻発する中で、「いのち」ということが今盛んに問題にされております。
「いのち」の重さが限りなく軽んぜられている。このような状況の中で、私たち大人は、「いのち」の尊さ・かけがえのなさを何とかして子ども達に伝えなければならないと考えるのですが、私はそこにこそ何か大きな落とし穴があるように思えてならないのです。
「いのち」の重さ、尊さというものが、人間の言葉・知識で表現し、伝えるということが出来得るものなのだろうかと思うのです。
そして、同時に、子ども達に「いのち」の重さや尊さを伝えなければならないと考えている私たち大人が、はたして「いのち」の重さ・尊さというものをどれほど実感しているのだろうかと思うのです。
私の父は、9年前、心筋梗塞のため自宅で亡くなりました。3人の娘はそれぞれ中学2年生、小学5年生、小学3年生でした。発病から11年目の、家族の目の前での突然の死でした。知らせを受け、私が自宅に帰り着いたとき時には、倒れた父を囲んで、母と妻と3人の娘たちが、父の名を呼びながら、皆で父の体をさすっていました。涙ながらの最期のお別れでありました。
私はこの時、親である私が、どんなに美しい言葉を並べても、決して教えることのできないことを、父は3人の孫達に教えていってくれたのだと思います。
父は自らの死を通して、人は必ず死ぬということ、家族には必ず死という別れがあるということを娘たちにも、私たち大人にも教えていってくれました。
そしてそれは、「いのち」というものの、かけがえのなさを思い知らされた大きな出来事であったと同時に、「これからあなたはどう生きるのですか?」、「これからあなたたちはどう出会っていくのですか?」という大きな問い掛けでもありました。
死すべき「いのち」であるからこそ、如何に生きていくかということが我々の課題となり、やがて別れるべき家族であればこそ、如何に出会っていくかということが願われてくるのだと思います。
私達は、限られた一生の中で、家族だけにとどまらず、多くの大切な人の死に立ち会っていかなければなりません。大切な人の死に立ち会うことは、私たちにとっては深い悲しみであります。しかし、それは同時に、「いのち」の重さと、「出会い」のかけがえのなさを知らされる「時」であります。
その人が何歳で亡くなっても、どこでどのような亡くなり方をしても、家族やその人と関わりを持った多くの人々にとっては、「死ぬということ」、「生きるということ」、そして「出会うということ」、「別れるということ」、平生問題にもしていなかったことが、人生の大きな課題となる大切な機縁なのです。
そして、その課題を仏さま即ち仏からの大切な「問い掛け」として聞き続ける中で、私たちは少しずつ「いのち」の重さ、尊さ、家族や友との出会いの大切さを知らされていくのだと思います。そのことを真宗では古来から、「お育てにあずかる」と言ってまいりました。今、私たち大人がしなければならないことは、子どもたちの先生となって、「いのち」の重さ、尊さを伝えようとすることではなく、多くの子どもたちと同じところに立って、一生徒となって、亡き人の「死」、そしてその人との別れから、「いのち」の重さ、尊さを学び聞き取っていくことではないでしょうか。

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