ラジオ放送「東本願寺の時間」

黑萩 昌(北海道 法誓寺)
第4話 今、いのちがあなたを生きている [2007.3.]音声を聞く

おはようございます。
今回も前回に引き続き、「今、いのちがあなたを生きている」という、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「いのち」について、感ずるところをお話させていただきたいと思います。
「今の若者は…」という大人たちの溜め息をよく耳にします。これは、もしかしたら何時の時代の若者も常に言われ続けてきた言葉なのかもしれません。また、何時の時代の大人たちも発して来た溜め息なのかもしれません。
しかし、そこには大人たちの問題として、何時の時代にも共通するものが、横たわっているような気がします。
それは、どの時代にあっても大人たちは、若者を厳しい眼で、そして、もしかしたら正しい眼で見ているのかもしれません。
しかし、何時の時代の大人たちも、若者に厳しい眼を向けている、その大人である自分とは如何なるものなのか。また、若者たちに私という大人は、どういう後ろ姿をみせているのかということを、決して問おうとしないということです。
他の人の姿、他の人の欠点は手にとるように見えるのでしょう。しかし、私というものが何年生きようとも正確に、掛け値なく見えることは決してないのでしょう。
それが人間の眼というものなのでしょう。その、他の人の欠点しかみることのできない私が、限り無く他を論評し、批評しながら生きていく。そのような在り方を仏教では「無明」と言い当てて下さいます。
「無明」とは明かりのない闇の世界です。真っ暗闇の世界で何も見えない、自分の姿が見えない。私というものが如何なる存在であるのかが全く分からないまま、限り無く、他を論評し批評していくような有り様が、私たちの生活であります。
私たちは、はじめての町に行って、「道に迷う」という経験をすることがありますが、道に迷うということは、行き先が分からないということよりは、むしろ、今いる場所がわからないということなのでしょう。今いる場所が分からないために、どちらの方向にどう進んでいいのかが分からない。「道」に迷うということの内容は、そのようなことなのでしょう。
昨年、北海道の若手僧侶の方々が、「U19(アンダーじゅうく)の集い」という研修会を企画し、実施いたしました。この研修会は、19歳以下の若者を対象に、「いのち」ということをテーマとして開催されたものです。そこで「いのち」をテーマとした、若者たちの多くの詩が生まれました。
その中の15歳の男子高校生の詩を紹介したいと思います。

金 金 金
大人たちは今日も醜く
玉を弾く

こんなことをするために
生まれてきたのか

金 金 金
大人たちは今日も空しく
玉を弾く

子供の頃は未来のこんな自分の姿を
想像しただろうか

金 金 金
大人たちは今日も悲しく
玉を弾く

いつになったら自分の
命の大切さに気付くのだろうか

15歳の若者の目に写った、私たち大人の姿がここにあります。この詩で言い当てられた生き様が私たち大人の本当の姿であります。 この若者は何もパチンコが悪いと言っているのではないのでしょう。パチンコというよりは、むしろ、どんなに立派な意見を持っていても、結局のところ最後は、「金金金」とお金に翻弄されているような、大人の生き方全体に対する、深い悲しみなのでありましょう。 私たちは、自分の姿が見えない「闇」の中にいます。それが私たちの迷いであります。そして、その闇が破れ、自分の姿があらわになる。そして、そこに深い傷みとともに、うなずきがおこって来た時を、目覚めるというのでしょう。 只今読ませていただきました詩は、15歳の若者の詩でありますが、そこに、闇に沈んでいる私たちを目覚めさせずにはおかないという、仏さま即ち仏のはたらきを感ずるのであります。

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