おはようございます。
今回も前回に引き続き、「今、いのちがあなたを生きている」という、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「いのち」について、感ずるところをお話させていただきたいと思います。
あらためて申し上げるまでもなく、私たちの「命」には限りがあります。そして、いつの日か、自分の「命」は必ず終わっていく、必ず尽きていくということを、みんなが充分過ぎるほど良く知っているはずであります。
人間は生まれるとやがて知恵がついてきます。そして、その知恵が自分の「命」に限りのあること、つまり、自分自身の「死」を知ってしまいます。
しかし、その知恵は、同時に「死」という問題が、人間の知恵や力では解決のつかない、途方もなく大きな課題であることを本能的に察知してしまうのだと思います。
そこで、私たちは「死」ということを極力考えないように、ごまかしながら生きていくのでありましょう。
私たちは、どんな人であってもただ漫然と生きているわけではありません。どうしたら幸せになれるだろうか、どうしたら楽しく充実した毎日を送ることができるだろうかということを、常に願い、常に考えつつ生きています。
しかし、残念ながらその幸せは、全て自分が生きているということを大前提にした幸せであります。ひとたび、私たちの身の上に、「死」というものがおとずれたならば、すべてが一瞬にして奪い取られてしまうような、そんなたよりにならないものを、唯一の根拠として生きているのが、私たちの生き様なのでしょう。
一生懸命生きているのに、なんとなく不安だとか、理由もなく空しいとか、しばしばそのような感情が起こってくるのは、私たちそのものの生き方に原因があるのであります。
そんな、私たちの生き方のただ中にあって、私たち自身の「命」の根底から、「あなたそのままでいいのですか?」と聞こえてくるのが仏さま即ち仏の呼び掛けであります。
息子さん夫婦と、お孫さんと幸せに暮らしておられる一人の女性の方が、自分のお兄さんを亡くされた時にこんなことを申しておられました。「私たち兄弟が、親のように慕い、頼りにしていた兄を亡くした時、私はこれまで一生懸命生きて来たけれど、これまでの生き方の中で、何かとても大切なものを忘れてきてしまったのではないかと…、それが何だかわかりませんが、そのことを確かめたいと思い仏法を聞こうと思い立ちました。」とおしゃっておられました。
お兄さんはすでに亡くなっておられるのですが、お兄さんの「いのち」は、「あなた、そのままでいいのですか?」という仏の呼び掛けとして、生き生きと現にはたらいているのでありましょう。
「あなた、そのままでいいのですか?」という仏の呼び掛けは、そのまま私たち人間の「わたしはこのままでいいのだろうか?」という問いとなり、その人を仏道という道に立たしめるのでありましょう。
私たちが、本当に願って止まないことは、「死」によって、全てが空しく終わるような一生ではなく、「死」によっても壊されることのない確かな生き方が開かれることなのでありましょう。
目の前に大きな石があっても、その石をしっかりと見ることがなければ、その人は石につまずき、足下をすくわれて転んでしまうのでしょう。「死」という課題としっかりと向き合った時、はじめて、亡き人の問い掛け、仏の呼び掛けの中に、生死いずべき道、「死」によっても壊されることのない確かな生き方を求め、尋ねて行こうという願いがおこって来るのでありましょう。そのことを本願寺八代目の蓮如上人は「後生の一大事をこころにかけて」と教えて下さっておられます。「後生の一大事」とは、「いのちの一大事」であり、「私のいのちの一大事」であります。