おはようございます。
今回も前回に引き続き、「今、いのちがあなたを生きている」という、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「いのち」について、感ずるところをお話させていただきたいと思います。
「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」。『歎異抄』第一章の中に出てくる親鸞聖人のお言葉です。弥陀の本願の前では、全ての人は平等であるということであります。
私たちにとって平等ということは、永遠のテーマであります。私たちは、平等を求めて悪戦苦闘している存在なのでしょう。しかし、その平等ということを、思想も文化も利害も異なる、無数の人々全てに通じるような、一つの言葉で定義することは、非常に困難なことのように思われます。
それでは、親鸞聖人がおっしゃっておられる平等とは、一体どのようなものなのでしょうか。
昨年出会わせていただきました、一人の女性のお話を少しさせていただきたいと思います。
その方は、長い間、教師をつづけられながら、子どもさんを立派に育て上げてこられた方でした。おそらく、ご苦労の多い人生であったことと思いますが、大地に足をつけて、しっかりとご自分の人生を一生懸命歩んで来られた方だと思います。
しかし、人間はその一生懸命が間に合わない出来事に必ず出会っていくものです。自分の努力や知識や経験、その全てをもってしても答えが出てこない、間に合わない、そのような出来事に出くわして行きます。
その女性は、一昨年、高校生のお孫さんを脳腫瘍で亡くしていかれました。10代の、人生これからという、お孫さんを見送る祖母としての悲しみは、いかばかりであったろうかと思います。
その女性は、亡くなる前にお孫さんから2つのことを尋ねられたそうです。一つは「おばあちゃん僕は死ぬの?」という問いでありました。そして、もう一つは「おばあちゃん僕は死んだらどこへ行くの?」という問いでありました。そのお孫さんの問いに「何一つ答えることができませんでした。」とおっしゃっておられました。そしてそのことが深い傷として残っておられるご様子でした。
私たちは、しばしば、「努力をすれば必ず報われる」、「一生懸命頑張れば、できないことはない」と自分自身を叱咤激励して、人生を前へ前へと歩んでいるのですが、努力や一生懸命では間に合わないことに、全ての人が必ず出会っていきます。それは家族の「死」であり、自分自身の「死」であります。
私たちは、丁度紙の表と裏のように、生と死、両方をもらって生まれてきました。如何に生きるかということも、人生の大切な課題でありますが、死もまた私たちにとって大切な課題であります。しかも、「死」は、老若男女を問わず、洋の東西、国籍も問わず、全ての人類に平等に与えられた課題であります。
その全ての人類に、平等に与えられている課題に立った時、「とも・同行」という全ての人と通じ合う世界が開かれてくるのでしょう。親鸞聖人がおっしゃる平等とは、課題を共有するところから、現に開かれてくる世界なのでしょう。
「おばあちゃん僕は死ぬの?僕は死んだらどこへ行くの?」という少年の問いは、そのまま「あなたも死ぬのよ。あなたは死んだらどこに行くの?」という少年から、そして、仏さま即ち仏から私たちに向けられた問い掛けであります。生きることにかかりはてて、「死すべき命をいきている」という大切な課題を忘れて生きている私たちに、その大切な課題を呼び起こさせる問い掛けであります。若くして亡くなっていかれた少年の、「あなたも死ぬのよ。あなたは死んだらどこへ行くの?」という問いを、仏さま即ち仏の問い掛けと聞き取って、大切にいただいて行きたいと思います。