ラジオ放送「東本願寺の時間」

黑萩 昌(北海道 法誓寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2007.3.]音声を聞く

おはようございます。
今回も前回に引き続き、「今、いのちがあなたを生きている」という、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「いのち」について、感ずるところをお話させていただきたいと思います。
最近特に感じますことは、世の中の人みんなが正しい答え、正しい意見を持ち、互いに非難し合い、論評し合い、ぶつかり合って、生活の場全体が、何かギスギスとした空気につつまれているように思われてなりません。
そして、そのような社会は、まぎれもなくそこに住む私たち一人ひとりが作り上げているのです。自分の正しい答え、正しい意見に固執し、いつもギスギスとした心で、イライラしながら生きている私が、この社会をつくりあげているのです。
そのような私のあり方を、親鸞聖人は「自力作善のひと」と言い当てて下さいました。「自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」と…。自分の力、自分の答えに固執し、生かされているということを感ずることなく生きる人は、「いのち」と「いのち」のあたたかいつながりから見放される。これほどの意味でしょうか。
もしかしたら、花を見る人と、花に出会う人とは違うのかもしれません。
花を見る人は、この花はきれいな花ですね。何という名の花でしょうか。この花はいくら位するのですか。このように、花だけを見て終わってしまうのでしょう。
北原白秋氏に「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド」という詩があります。「バラの木にバラの花が咲いている、何の不思議もないけれど…、不思議だなぁ」という北原白秋氏の深い感動が伝わって来ます。
バラの木に咲いたバラの花から、それを咲かせ生かしている、日の光や水や空気、大地のはたらき、広大ないのちの営みの世界をも感じとっていかれたのでしょう。
そして、同時に自分自身のいのちもまた、一輪のバラの花と同じように、広大ないのちの営みの世界に、生かされているということを、感じとっていかれたのかもしれません。豊かな世界だと思います。
昨年の5月に一人の男性が亡くなっていかれました。若い頃から病気ひとつしない健康な方でありましたが、癌が発見された時には、すでに手遅れであったそうであります。亡くなる一ヶ月ほど前に、病室で60年間連れ添った奥さんに、「長いこと世話になったなぁ、ありがとう」と一言いって亡くなりましたと、後日奥さんからお聞きしました。その時の奥さんのお顔が、淋しさの中にもどこか晴れやかな表情でありました。
死を目前に感じながら、長い間共に生きて来た妻の苦労を思った時、「ささえてもらって来た。世話をかけて来た。生かされて来た。」というのが実感であり、事実であったのでしょう。その事実に自然に頭が下がったところからこぼれて来たのが、「長いこと世話になった、ありがとう」という一言となったのであろうと思います。その一言の中に六十年間の夫婦生活の、一切が成就していくような世界を感じます。「いのち」と「いのち」のあたたかいつながりを感じます。
私たちは、自分の知識や能力を磨き、自分の力で自分の人生を切り開いて行くことを教えられ生きてきました。しかし、その生き方そのものが、生かされているという事実を見失わせ、私たちから「いのち」と「いのち」のあたたかいつながりを奪い取っているのではないでしょうか。
私たちの生き様は、「自力作善」にみち満ちています。そのような私たちに「生かされているという事実に目覚めよ」と、バラの花一輪を通して、我が身の「死」を通して、あらゆるものを通して、「いのち」の根底から語りかけて来るのが仏さま即ち仏の呼び掛けであります。

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