おはようございます。
今回が私の担当させていただく最後の放送となりますが、今回も前回に引き続き、「いのち」について感ずるところをお話させていただきたいと思います。
テレビの映像などで、色々な動物や昆虫たちの、「命」の誕生の場面が映し出されることがありますが、そんな時、私はいつも「命は生まれてきたいのだなぁ」ということを強く感じさせられます。新しい「命」そのものが持っている、「生まれたい生まれたい」と願い、「生きよう生きよう」とはたらく、「命の意志」のようなものを強く感じます。
仏教は因縁ということを大切にいたしますが、「命」の因は命そのものの中にあるのでありましょう。しかし、因だけでは「命」が誕生するということはないのでありましょう。そこに、縁という無数の条件が揃わない限り、「命」が生まれてくるということはないのでありましょう。
昨年五月に、北海道で若手僧侶と十九歳以下の若者たちによる、「U19(アンダーじゅうく)の集い」という、「いのち」をテーマにした研修会が開催されました。この研修会は、僧侶が若者に「いのち」を教え伝えるのではなく、むしろ若者の感性から、「いのち」について聞いていこうという願いのもと、開催された研修会でありました。そして、その試みの中から、「いのち」をテーマにした多くの若者たちの詩が生まれました。ここではその若者たちのいくつかの詩を手がかりにして、「命」を縁という面から考えていきたいと思います。
太陽の光をあびて 太陽の光をあびて 太陽の光に 木々の緑に 木々は何も言わず 太陽と木々達だけじゃない |
この詩は、17歳の女子高校生の詩です。私たちの「命」そのもの、「生まれたい生まれたい」と願い、「生きよう生きよう」とはたらく「命」の意志は、ただそれだけでは、決して成就することはないのでしょう。そこに無数の条件が整って、生み出され、生かされているのが私たちの「命」なのでしょう。この少女は、私たち大人が忘れ去り、無視している、私の命を生み出し、生かしている広大ないのちの営みの世界を感じとっているのだと思います。豊かな世界だと思います。
たくさんの人が行きかう中で 季節が変る度に この世に全てあるものは だから壊れやすいもので 何故いのちはあるの あなたはあたえられたいのちと |
18歳の女子高校生の詩です。ここで「与えられたいのち」と表現された内容は、何か絶対的な存在に創られ、与えられたいのちということではないのでしょう。先程の詩にありましたように、私たちは、太陽や木々たち、無数の存在によって生かされているのであります。しかしそれは、生まれてきた後だけのことではなく、私たちの命が、母親の命の中に芽生えた瞬間から、私たちの命は、広大な「いのち」の営みと、母親の命を通してつながり、護り生み出されてきたのでしょう。そして、そのいのちの伝達の繰り返しが、人類の、そして私たちのいのちの歴史なのでありましょう。その命の歴史の深さと、「生かされている」ことの重さを感じた時、「与えられたいのち」と表現したのでしょう。そしてその感覚は、この少女にとって、「いのち」と向き合った時、はじめて呼び起こされて来た新鮮な感覚ではなかったのだろうかと思うのです。
私はこの詩を「いのち」を無視して、「いのち」に背を向けて生きる、私たち大人と大人社会に対する、若者からの、若者の感性を通した、仏さま即ち仏からの厳しい問い掛けであるといただいております。