ラジオ放送「東本願寺の時間」

寺本 温(長崎県真蓮寺)
第1話 今、いのちがあなたを生きている [2007.5.]音声を聞く

おはようございます。
今回から6回にわたって、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しさせていただきます。
このテーマが出されたとき、ある人から「今、私がいのちを生きているなら分かるのだが、いったい何を言おうとしてるのだろう」と言うことを聞きました。ある意味でもっともな問いだと思います。そこには、普段私たちは、「自分のいのちや自分の人生は自分のものだ」と当たり前にして、問うこともなく生活しているということがあるのではないでしょうか。
ある人が「自分は、甘いものが好きで、ついに糖尿病になりました。普段は、食事制限をしていますが、ある時、仕事で車を走らせているとき、この付近においしい鯛焼き屋さんがあることを思い出しました。しかし、食べてはダメだと思っていましたが、気づいたときには車はお店の前で止まっていました。そこで数個の鯛焼きを買い、しばらく走ったところで車を止め、無心に全部食べました。自分が鯛焼きを食べたところで、誰に迷惑をかけるわけでないし、自分の人生だから、思うように生きたいですよね。」と話してくれました。私自身も、ついついお酒を飲み過ぎて2日酔いになって自分の身を傷めるという自分の体を犠牲にしても思いだけは充たしたいという生き方をしてしまいます。
また、私たちは、自分の体や人生だけでなく、周りの大切な人を、「全自動洗濯機」にしたり、「全自動給料運び機」にしたり、「全自動小遣い支払機」にしたりしてしまいます。それは、自分をも他の人をも道具にしてでも自分の思いが充たされる人生こそが幸せだと、つまり、思い通りになることが人生の目的だと疑わない姿であります。
仏教は、思い通りを求めて止まない生き方を罪福信という迷いとして教えてくださいます。罪福信とは、聞き慣れない言葉かもしれませんが、罪という字と幸福の福、そして信じるという字を書きます。迷いの証拠に、現代を生きる私たちは、結構思いが叶っていますがなかなか満足していません。私は、五十年ほど生きてきましたが、こどもの頃から比べると、「夏は寒くて風邪ひくくらい涼しくでき」、「冬はTシャツで冷たいビールが飲めるくらい暖かくでき」、「夜は一晩中、真昼のごとく明るくでき」、「食べ物は生ゴミとして捨てるほど」あふれかえっています。「そうなればいいな」と願ったことが現実となり、手に入ったときは「やったあ」とも思いましたが、すべてが慣れると当たり前となり、さらにもっともっとということばかりです。
思いどおりになることは大好きですが、好きなだけにそのことを迷いだと認めたくないという心がはたらいています。そしてそれが、自分のみならず、他の人の人生を道具にしても痛みすら感じないものとなっています。道具ということは、人間としての自分との出会い、人間としての他の人との出会いを見失っているともいえることでしょう。ちょうど桃太郎の話に出てくる鬼が、鬼ヶ島からやってきて、都で暴れ、都の人の財産を奪って鬼ヶ島で自分の思いを充たして生きている姿と重なります。思い通りになることを幸せだと思って生きる者は実は鬼の生き方をしていることになります。他の人の痛みなど感じないで、自分の思いを充たすことに夢中なのです。そこにはとうてい本当の出会いなどありようもありません。
以前そのようなお話をしたとき、「それでは、鬼をやめるにはどうしてらよいですか」と質問を受けました。思いどおりが大好きな私たちは、とうてい鬼をやめることはできないでしょう。しかしながら、鬼の生き方をしていても、鬼と知らないときは、平気で道具にして心も痛みません。鬼と知らされたならそのはずかしさの中から、自分自身や他の人に対しても謝るということが出てくるのです。それこそが、人間を道具にして生きてきた者が、改めて道具でなく人間だといただき直す眼が開かれた証でありましょう。そこから、他の人とも、自分自身とも本当の出会いが始まることでしょう。

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