ラジオ放送「東本願寺の時間」

寺本 温(長崎県真蓮寺)
第5話 今、いのちがあなたを生きている [2007.6.]音声を聞く

おはようございます。
今回も、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しをさせていただきます。
今回は、このテーマの中にもある「今」というところに焦点を当ててお話しをさせていただきます。
私たちの身は間違いなく「今」を生きているのですが、思いの方はというとなかなか「今」を生きていないようです。前にも触れましたが、自分の都合よく、思いどおりになることが幸せだと疑わない迷いがあるからです。過去については、思う通りになっていない「今」を感じるとき、「あの時AとBの選択肢があったが、Aを選んだのが間違いで、Bを選んでおけばよかった」と今更どうしてみようもないところに後ろ髪を引かれて、後悔を重ねて、愚痴を言います。
また、未来については、「ああなったらいいな、こうなったらいいな」と思いどおりになることを求めます。でもどんなことを手に入れても慣れてしまえば当たり前になって、手に入れたものがみすぼらしくなり、次の「ああなったらいいな」を生み出してゆきます。その「ああなったらいいな」を願わずにおれない中身は、いつも自分に欠けているものを手に入れて満足しようというものです。ですから、無い物ねだりの幸せの求め方といえることでしょう。そういう求め方をしているときには、自分に欠けているものを持っている人の都合のいい面しか見ていないことがほとんどではないでしょうか。たとえば、「お金があるといいな」と思うときは、お金を持っている人の生活を見て、立派な家に住んでいるとか、ご馳走がいつでも食べられるとか、身につけている物が高級なものばかりとか、海外旅行にしょっちゅう行けるとかそういう面です。でも、財産を持ったために事件に巻き込まれたり、芥川龍之介の『杜子春』に出てくるように、「貧しかったときには自分に声をかけてくれる人は自分のことを心配してくれる人ばかりだったのに、大金持ちになったとたん声をかけてくる人は何が目当てなのか腹を探らずにはおれなくなった」ということもあります。この頃は、財産分与で親子、兄弟、親族が裁判という公の場で争うことも耳にすることです。そうなってしまうと「こんなことなら、お金など手に入らなければよかった」というってしまうのも、思いどおりになることを願い続ける迷いの姿なのでしょう。
また、未来を求める思いは、ついつい結果のみを重視してしまうこととなりがちです。あまりにも結果にとらわれると、「今」というときは、未来の結果のための準備としてしかいただけなくなってしまいます。そうすると思いどおりの結果が出ないと、「何のために頑張ってきたか分からない。一生懸命やってきたことは無駄だった」と言ってしまうことになります。逆に、「終わりよければ、すべてよし」などという今までの歩みを軽視してしまう言葉も生み出してしまいました。
また、「病気の自分は不幸だ」と言ってしまいがちですが、病気が不幸なのではなく、健康の自分しか引き受けたくないから、病気である「今」が引き受けられないのでしょう。
昨年亡くなった父が「逃げれば暗い、引き受ければ明るい」と言っていたことが思い起こされます。
仏様は、過去も未来も含んでかけがえのないいま尊しと教えてくださいます。思いどおりを求めて、「今」が尊しといただけないとき過去が後悔されて愚痴となり、未来の結果に縛られて生きることとなるのでしょう。「今」を尊しといただけるとき、愚痴と後悔と結果の束縛から解放されつつ人生を歩まさせていただくことであります。

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