ラジオ放送「東本願寺の時間」

寺本 温(長崎県真蓮寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2007.6.]音声を聞く

おはようございます。
今回も、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しさせていただきます。
前回も申しましたが、私たちは、疑うことなく当然のこととして自分のいのちは自分で生きていると思い、自分の人生は自分のものだ思うことがほとんどではないでしょうか。ですから、自分の人生を自分の思い通りにすることが最優先の生きる目的になり、共に生きるという、他の人への思いをはせることがだんだん困難となってきているのでないでしょうか。親鸞聖人は、「時代の濁りが増してくると人間はだんだん小さくなる」と教えてくださっています。つまりそれは、「人間は、だんだん自分のことしか考えづらくなっていく」といえるでしょう。
まず、知識の面で言えば、自分自身最近こんなことを経験いたしました。それは、ある日系ブラジル人の女性と話をしていたときのことでした。私が「ブラジルといえば、ことばはポルトガル語ですよね」と知識をひけらかしたとき即座にその女性は「いえ、ブラジル語です」と答えました。その瞬間私はとても恥ずかしい思いをいたしました。確かに言語学的にはポルトガル語で正解なのでしょう。しかし、そこに生活する人々にとっては、紛れもなく自分の国のことば、ブラジル語なのでしょう。それによって、正解を知り、正解を語ることで、そこに人間を見いだすことを忘れて生きるとき、他の人を傷つけてしまうことがあることを知らされたことであります。
また、身近なところで現在よく見られることに、車の運転で言えば、交差点の直前とか信号が変わってからしかウィンカーを出さないことや、旅館やホテルなどの公共のお風呂で、洗い場で体をよく拭かずしずくをたれながら脱衣場にあがっていく姿をよく見かけます。自分さえ困らなければ、他の人がどういう思いをするかということを感じにくいことの表れだと思われます。
さらに、ハンセン病問題に少しばかり携わらせてもらったときに強く感じたことがあります。それは、ハンセン菌という病原菌は非常に弱く、感染も発病もしにくく、万が一発病しても今の医療ではすぐに完治することが判明した後も療養所という名の下にそこを出ることを許されなかったという事実です。これこそ、自分さえ痛まなかったら平気で他の人の人生を奪い続けてきたと言うことでしょう。現在、「ライ予防法」は廃止され、身の拘束は表面上無くなったとはいえ、高齢化した療養所に生活する多くの人々が、ふるさとの地を踏めないのは、私たちは頭では分かっていても、身に付いた疑いもしない心で未だそうさせていることは否めません。
そういう矛盾が、お経の中に、父である王を牢獄に閉じこめて餓死させようとした阿闍世という皇太子が、三週間たって牢獄を訪れたとき、牢の番人に次のように聞く場面が出てきます。「父の王は、今も存在しているか」と。本当は、殺そうとしているので、「父の王は死んだか」と聞きたいのでしょうが、そう聞くとなんとひどい息子だと見られることをおそれ「生きているか」と聞かずにおれなかったのでしょう。人を殺していくというようなことをしでかすときでさえ、自分の評判が気にかかって仕方がない、いや、無意識にでも自分の評判を守ろうとする迷いの姿がいただかれます。ところが、父を殺した後、阿闍世はその矛盾のため病にかかります。そこで立ち直らせようと、いろんな人が「仕方がないことだ」とか「インドでは父を殺して王になった人は沢山いる、あなただけではない」とか自己肯定の教えが説かれます。しかし阿闍世はそんなことでは立ち直れませんでした。そこにお釈迦様の教えとして、どこまでも自分を正当化していくことのはずかしさが説かれます。そこにうなずかされるときに、自分さえよければという生き方が破られる兆しを感ぜずにおれません。

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