ラジオ放送「東本願寺の時間」

寺本 温(長崎県真蓮寺)
第4話 今、いのちがあなたを生きている [2007.6.]音声を聞く

おはようございます。
今回も、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しさせていただきます。
前回にもお話しさせていただきましたが、私たちは、疑うことなく当然のこととして自分のいのちは自分で生きていると思い、自分の人生は自分のものだ思うことがほとんどではないでしょうか。それ故、知らず知らずのうちに自分を傷つける生き方をしても気づかないという問題を抱えているのではないでしょうか。このテーマをご縁に、是非そのことに気づき、共にそこを超えて生きていきたいという願いから今回お話しをさせていただきます。
まずこのことを、「道徳」と「宗教」という観点から見てみますと。昨今の「いじめ」や「いじめによる自殺」や「3万人を超える自殺者を抱える日本」というマスコミの報道に触れると、「いじめはダメだ」、「自殺はダメだ」という大合唱が起こります。それは「道徳心」というものから出てきているのでしょう。確かに「いじめ」や「自殺」は無いに限ります。そして、道徳はそれらを抑制する大切なはたらきをもっています。また、人間は、理性によって道徳を保てると思っています。でも、本当に理性によって道徳が保てるかというと、実は、簡単なことさえ保ちがたい怪しい現実がそこにあります。たとえば、腹を立てないと言うことを一つとってみても、他の人に自分の悪口を言われたとき、理性的に「今、自分の悪口を言われているが、腹を立てるべきか、立てないでおくべきか、よく考えて、やっぱり立てよう」というようなことなどないわけでしょう。そこまで考えられるものなら、腹を立てずにすむはずです。「腹は立てないに限る」道徳を知識で知っていても、現実には、自分の悪口を言われようものなら、理性を超えて腹は立ってくるものなのでないでしょうか。そこにどういう問題があるのかを教えられてくるのが「宗教」の役割といえると思います。
私たちは、何事もないときは、理性を保ち続けて生きられるように思っています。しかし、理性によって押さえきれずに「腹が立つ」と言うこと一つとってみても、そういう時は、「誰だってそうさ」、「人間とはそのようなものだと」と自己をかばって生きます。
さらに、自分がしたことのないことや、しそうにないと思っていることに対しては、厳しい追及をしてしまいがちではないでしょうか。そのような私たちの生き方は、「自分に限って、自ら命を絶つはずはない」と思いこんでいるところから、「自ら命を絶つことはは許されない」と言ってしまいます。結果として、そのことばは、自らいのちを絶って身近な人を失った方たちを、ただでさえ悲しみの中にあるのに、追い打ちをかけるように痛みを負わせることになっているのではないでしょうか。
よくよく考えさせられてみると、私たちの生きる姿は、どうでしょうか。直接に死を選ぶことはしていないかもしれませんが、快適さ、楽しさを優先するあまり、環境汚染や公害のみならず、腐りにくい、見栄えがよいという利点はあるけれど、摂取の仕方によっては健康によくない添加物の入った食物をとり続けたり、飲み過ぎ・食べ過ぎ・たばこを吸うことや、ゲームのしすぎによって目がチカチカし、頭痛がしたり、指が痛くなっても止められないとか、自分の体を痛め続けて暮らしています。そういう生き様をしていながら、「道徳」を持ち出して、死を選んだ人は「人生落第」で、生きている自分は「合格」だと見ているところに偏りはないでしょうか。
仏教では「慈悲」ということが説かれます。仏様は誰一人見捨てることのない心で私たちを照らしてくださっていることの表れだといただいています。そのお心に触れるとき、自分を「合格」、自分の基準に漏れる人を「落第」としている愚かさ・はずかしさが知らされてくることです。
また、理性を破って立ってくる腹から、「自分のことは自分でどうにかなる」と思い上がっているうぬぼれが知らされてくることです。
ついつい知らないうちに自らをも傷つけてしまう私たちであればこそ、そこに気づかされ、少しでも人生を丁寧に・大切に歩まさせていただきたいものです。

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