ラジオ放送「東本願寺の時間」

寺本 温(長崎県真蓮寺)
第2話 今、いのちがあなたを生きている [2007.5.]音声を聞く

おはようございます。
今回も、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しをさせていただきます。
私たちは、疑うことなく当然のこととして自分のいのちは自分で生きていると思うことがほとんどではないでしょうか。そして、そういう考えは、「自分だけが間違いがない」・「自分だけは頼りになる」ということを根底として生きている姿の表れなので、よほどのことがない限り問い返すことなどないのではないでしょうか。
また、自分の歩んできた人生においても「間違いなかった」と言いたい心が、混乱と矛盾を引き起こしているにもかかわらず、このことにも気づきにくいものです。
たとえば、20年ほど前からでしょうか、若い人たちが、髪の毛を茶色や、黄色や、緑などに染め出したとき、「せっかく黒髪の美しい日本人に生まれながら、茶髪とするとはとんでもない」というような声をよく耳にしました。でも、その時、白髪を、黒く染めることにはあまり苦言を聞いていません。そして、今では、年代を超えて、多くのひとが髪を染めるようになると、「きれいに染まっているね」という声は多く聞かれ、「茶髪は許せん」という声はほとんど聞かれなくなりました。また、他人のうわさ話や、悪口を言うような自分であれば、「それくらいは誰でもいうさ」とか「人間とはそんなものでしょう」と居直りさえして自己肯定しようとしますが、自分がしたことのないことやしそうにないと思っていることをしている人には「信じられない」とか「理解できない」とか「人間のすることとは思えない」と激しく攻撃をしかねません。そこに、物事を判断するとき、実は自分の経験にあるかないかが重要な根拠となっていることがうかがえます。
仏様の教えに照らされると、「自分が一番かわいい」という思いで、物事をありのままに見ていない自分が知らされてきます。そのことを、昨年亡くなった父が「他人が茶碗を割ったときは「茶碗を割った」と割った責任者が明確な言い方をするが、自分が割ったときは「茶碗が割れた」と犯人が不明確で、いかにも茶碗が勝手に割れたかのように言う」とよく語ってくれていたことを思い出します。
つまり、いつも自分を基準としてしか物事が見られないのに、そのあやふやな基準が問われることがなければ、その時その時、今までの自分の経験と、状況によってコロコロ変わる自分の都合によって生み出された善悪に振り回されて生きるよりないと言うことなのでしょう。
そういうあやふやな自分を見破り続けてくれる確かなものに出遇ったとき「安心して、自分の起こす心はアテにならない」と自分にしか通じない「経験」や「善悪の判断」にしがみつく人生を免れていくことであります。
1998年(平成10年)に勤められた蓮如上人五百回御遠忌のときのテーマに「バラバラでいっしょ」ということばが掲げられました。自分にしか通じない価値観を生きるとき、自分の価値観にあわない人を拒絶するだけでなく、自分の思いにあわない自分をも拒絶するよりないそういう生き方をしてしまうことでしょう。そういった私が、自分にしか通じない世界が破られたとき、自分と違う生き方や価値観をもっている人と出会い、排除することなく共に生きる大切さを知らされ、受け止めがたい自分の人生をも実は自分の思いが行き詰まらせようとしていたことに気づかされることであります。

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