おはようございます。
今回も、来る宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」をご縁にお話しをさせていただきます。
今回は、このテーマに触れたときに直感的に普段私たちは、自分のいのちは自分のもので、自分で生きていると思っていることを破る言葉として「生かされている」ということを言おうとしているのかなと感じましたので、そこに焦点を当ててお話しをさせていただきます。
この放送の中でも触れてきましたが、わたしたちは思いどおりになることこそ幸せと思いこんでいる罪福信という迷いを生きてしまいがちです。罪福心とは聞きなれない言葉かもしれませんが、罪という字と幸福の福、そして信じるという字を書きます。そして「生まれた」と言うことを考えるとき、都合よくいっていると思われるときは、親や先祖に感謝もしますが、都合が悪い現実に突き当たると、「勝手に生んでおいて」とか「こんな思いまでして生きなければならないのだろうか」と思ってしまいます。私自身、少年時代は、科学者になりたかったので、周りから「坊さんになれ」と決めつけられるのがいやで、損するところに生まれたものだと随分悩んだものです。今は縁あって仏教に出遇い、僧侶にならさせていただきました。勿論、科学者を目指してもよかったのですが、私にとっては、仏教に出遇わないまま、何になっても都合よくいかないときは、「こんなはずじゃなかった」と愚痴を言うか、「人生とはこんなもんさ」と居直ることばかりだっただろうと思われます。思いどおりを願ってやまない人生は、どこに生まれようとも、どんな生き方をしようとも最終的には満足できないのでしょう。ですから、都合よくいかないときは「こんなことなら死んだ方がましだ」という思いも起こってきます。思いの方はそうですが、身の方はそんな思いをしている私も引き受けて、縁の尽きるまで精一杯生きようとはたらき続けてくれています。時々「人生に行き詰まった」という言い方を耳にしますが、本当は人生が行き詰まるのでなく、思いどおりの人生しか引き受けたくない思いが行き詰まるのでしょう。また、「まだまだ長生きしたい」と願っても、縁が尽きれば亡くなっていきます。それは、自然の摂理、自然の道理、または「いのちのすがた」ともいえるものなのでしょうが、人間の思いの方がなかなかそのことを受け止め難いものを抱えています。ですから、自分のいのちも人生も自分のものだというところで、思いどおりにしたいというところに帰着せざるをえません。しかし、先ほども述べましたように、自分の思いを超えて自分の身があり、はたらいているのです。
そこで私たちの先輩は、その有様を「生かされて、生きる」というような表現をしてくださっています。そして、さらに、「このことに気づかされたならば、感謝ということが大切です」とも語ってくれています。確かにその通りでしょう。でも一つ落とし穴があります。それは、思い通りを願ってやまない迷いの生き方をしていることを忘れて「生かされて生きる」とか「感謝しましょう」と言っているときは、どうしても平穏無事で、達者であるという都合のいいときにしか感謝など出てこないからです。あえて感謝というのであれば、私の都合を超えて、どんな人生をも感謝して引き受けさせていただくことこそ大切なことではないでしょうか。つまり「感謝」の吟味が大切なのです。
「南無阿弥陀仏」というインドの言葉を天親菩薩というお坊さんは「さわりなくすべてを照らす真実のはたらきをよりどころとせよ」と訳してくださいました。「さわりなく」とは条件なしということでしょう。どんな人をも見捨てないということです。逆から言うと、私たちは、いつも条件を並べ立てて、自分の立てた条件に苦しんでいます。そして、立てている条件にさえ気がつかず苦しみを生み出しています。そういう条件を照らし出し、吟味してくださるものを大切に人生の中心に据えよとも聞こえてきます。自分の立てた条件から解放されつつ、本当の満足する人生の歩みを共にたずねてまいりたいと願います。
ありがとうございました。