おはようございます。
東本願寺(真宗大谷派)では2011年に親鸞聖人の750回御遠忌法要を営みます。
その御遠忌のテーマに「今、いのちがあなたを生きている」を掲げました。そのテーマに沿って特に「いのち」ということを中心にして6回にわたってお話しさせていただきます。
「いのち」という言葉は様々な形で今日語られています。特に最近の相次ぐ殺傷事件、また年間3万人を超える自殺者、さらには高度に発達した生命科学に対する危機感等が、その「いのち」を語る言葉の背景にあると思われます。御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」が生まれてきましたのもそのような状況を踏まえての事かもしれません。
しかし、その「いのち」とは、何か深い意味、宗教的な意味があると思われます。その宗教的な意味とは、単に生命学的な意味の「いのち」ではなく「人間が生きるということは何か」、「本当に生きるということは何か」を問いかける意味をもっているのでしょう。
今から34年前(1973年)に、東本願寺では親鸞聖人のご誕生800年、親鸞聖人によって真宗の教えがひらかれて750年の慶讃法要を営みましたが、そのときのテーマが「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」でした。正にこのテーマに呼応する内容をもった今回のテーマでもあります。
ではその「人間が生きる」ということ、「本当に生きる」ということはいったい何でしょうか。それを私が経験した三つの事柄からお話したいと思います。
今から50年ほど前、私が小学4、5年生の頃でなかったかと思いますが、担任の先生が言われた言葉を思い出します。それは「君たちは大人になっても人糞製造機にだけはなるな」という言葉です。それは、「ただご飯を食べる以外に何の生きる意味を持たない人間になるな」という意味であったと思います。長い間、そんな言葉を忘れていたのですが、なぜか60歳になったこの頃になって思い出します。
もうひとつは、もう何十年も前に観ました黒澤明監督の『生きる』という映画です。正確には覚えていませんが、役所勤めをしてきた定年退職間近の男性が主人公であったかと思います。そんな彼がある日突然ガン宣告を受けます。その頃は一種の死の宣告のような時代でした。そんな彼は自分自身のそれまでの生き方がこれでよかったのか、これで人生を終えてよいのかを考え始め、生きた自分の証しとして、町の公園造りにそれこそ寝食を忘れて没頭します。
映画のラストシーンは出来上がった公園を夕方訪れ、ブランコに乗りながら,『ゴンドラの歌』を歌うシーンです。「命短し恋せよ乙女…。」真っ暗な空から雪が降り注ぎ始めます。今でもそのシーンは忘れることが出来ません。
「命短し恋せよ乙女…。」それは限られた人生、かけがえのない人生を本当に生き切ろうという黒澤明監督からのメッセージであったのかも知れません。
もう一つは、何年か前に亡くなられたおばあさんのことです。そのおばあさんは顔を会わすと「死にたいわー、死にたいわー。早くお迎えこんやろか。早くお迎えこんやろか」と言われる方でした。「そんなことを言ってはいけない」と私は言っていましたが、しかし、本当に死にたいのではなく、孤独で無為な生活の中からでてきた「生きたいわー、生きたいわー」という心の底からでてきた叫びであったに違いありません。
以上のような3つの出来事をお話しましたが、戦後60年あまり経ち、確かにものの豊かな時代、便利な世の中になりました。しかし、「人間が生きるということは何か」、「本当に生きるということは何か」が切実に問われている時代になってきたとも言えます。そういう意味では、かつてなかったほど「いのち」そのものが問われている時代になってきたとも言えます。それこそ正に先にご紹介しました「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という親鸞聖人からの呼びかけに、私たち一人一人が応答していかなければならない時が来ているといえるのではないでしょうか。