ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 浩昌(三重県西願寺)
第3話 親子関係を考える [2007.7.]音声を聞く

おはようございます。
「家庭崩壊」という言葉が語られますようになって久しくなりますが、夫婦、親子など、家庭における人間関係が深刻な問題を抱えるようになりました。親鸞聖人も、そして蓮如上人も家族の事で悩みやら苦しみを持たれたようです。そんなことから、子どもにとって父とはどんな存在なのか、母とはどんな存在なのかをお話させてもらいます。
まず「父とは」ということですが、わたしの知人のことですが、彼の父は戦中戦後のモノのない時代、酒屋さん一筋で子ども7人を育て上げました。自動車もない時代です。多分自転車にリヤカーをつけ、暑い日も寒い日も何本もの酒ビンを積んで販売していたのでしょう。子どもの頃、その父についていき、坂道なんかでは後ろから押したものだとよく思い出話として語られます。年配の方ですと誰もがそうした父親の背中を見、そして家族のために必死になって働く父親の後ろ姿が目に焼きついているのでしょう。生きる事の厳しさもそうした経験から学んだのでしょう。
また、「ウソをつくな」「卑怯な事をするな」とか、「ご飯の食べ方が悪い」「ちゃんと正座しろ」と父から叱られたものです。普段寡黙な父が叱る言葉には厳しいものがありました。しかし考えてみれば、大人になって社会生活を営む上で大切な事を教えられたように思います。
優しいお父さんもいい、友達のようなお父さんもいいのですが、「叱るお父さん」をあまり見かけなくなったように思います。
そんな父親と、物心ついた頃には対立、いわゆる「反抗期」があります。父と息子の対立は洋の東西を問わずいつの時代もあるようです。しかしその対立、葛藤を通じて、一人前になり、また父親にもなっていったのではないでしょうか。現代の子どもたちには反抗期がないといわれていますが気になることです。
もうひとつ、「母とは」ということですが、昨年ある研修会の席で保育士をされていた方が「わたしは長年保母をやってきましたが、最近のお母さん方を見ていると、お母さんという感じを受ける方が少なくなってきたように思います」と言われました。座談、話し合いの時間では「何も母親だけに限らず、現代人は自分中心に物事を考えるようになっているのではないか」とか、「自分の生きがいを求め、それに向かって生きていく事は大切な事でないか」という意見が出ました。
そんな意見を聞いて私はこう思いました。「確かに核家族化の問題やら地域社会、そして家族、夫の支えの必要性の問題もありますが、子どものためには自分が犠牲になることもいとわない。むしろ、子どもと一体になるというのが「母」というものでなかったか」と。
何年か前に「仏様はどのような方か」で「ウバ捨て山」の話を聞いた事があります。昨年なくなりました今村昌平監督の映画『楢山節考』はご覧になった方も多いかと思います。70歳になればお婆さんは食い扶持を減らすために山に捨てられるという話です。明治時代の僧侶、近角常観という方が「仏様とはどのような方か」をそのウバ捨て山の話で譬えられたと聞いています。
息子が老いた母を背負って山に捨てに行くわけですが、その途中で背負われた母が枝をポキリポキリ折っていくのです。背負っていた息子は「ひょっとしたら道しるべをつくっておいて、村へもどってくるのではなかろうか」と気が気ではありません。山奥へ入りいよいよ母を降ろそうとしたら母が言います。「これだけ山奥へはいってきたのだから、お前が迷子になってはいけないと思い、途中途中で枝を折っておいた。それを目印にして帰れ」と。自分を捨てようとする我が子のことをも心配するのが母というものであろう。仏様というのも、自分を足蹴りにするような人のことをこそ心配されるのだと。
子どもの頃「のんののの様仏様、わたしの好きな母さまと…」と仏教讃歌を歌った覚えがあります。父性(父親性)のみならず、母性(母親性)が失われつつあるといわれる今日、ますます仏さまがイメージできなくなっているように思います。

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