おはようございます。
11年前に亡くなりました小説家でもあり批評家でもありました遠藤周作の晩年の作品に、講談社からでております『深い河』という作品があります。1993年の作品ですが映画化もされています。主人公は磯部という男性ですが、彼は妻をガンで亡くします。その妻は亡くなる前に「わたし…必ず…生まれ変わるから、この世界の何処かに。探して…わたしを見つけて…約束よ、約束よ」と、息もたえだえに語ります。そんな彼女の生まれ変わりと思われる子どもがいるらしいと知り、彼はインドへ旅立ちます。
しかし、結局探し出す事はできず、河のほとりに佇み、河に向かってつぶやきます。「おまえ」「どこへいったのだ」と…。
仕事第一で生きてきた磯部は、妻に対して愛情がないわけでもないが家庭を無視することが多かった。しかし、妻を失ってみてはじめてそのかけがえのなさに気づき、それまでの自分自身の生き方をつらつら省みます。作品では次のように書かれています。
だが、一人ぽっちになった今、磯部は生活と人生が根本的に違う事がやっとわかってきた。そして自分には生活のために交わった他人は多かったが、人生の中で本当にふれあった人間はたった2人、母と妻しかいなかったことをみとめざるをえなかった。
「お前」と彼は再び河に呼びかけた。「どこに行った」
河は彼の叫びを受け止めたまま黙々と流れていく。
少々引用が長くなりましたが、ここに書かれている「生活と人生」ということを、考えてみたいと思います。「生活」とか「人生」という言葉はイヌやネコには使いません。「イヌの生活」とか「ネコの人生」なんて言葉は聞いた事もありません。人間にのみ使う言葉でしょう。しかし、その「生活」と「人生」とでは少々意味が異なるように思われます。『広辞苑』によると「生活」とは「世の中で暮らしてゆく手立て」とありますが、やはり「衣食住」が中心になります。『深い河』に出てきた磯部という主人公も、正に衣食住のため、生活のために懸命に生きてきた男性であったといえます。
「洗濯機がほしい、テレビがほしい、車もほしい。家も建てたい。子どもも大学へ入れたい…。」そんなことで必死に生きてきたのが戦後の正に「生活」であったと思います。しかし、72年のオイルショック以降、いわゆるバブルがはじけ経済も右肩下がりになってきます。そして金属バットで家族を殴り殺すという事件に象徴されるような家庭崩壊、今日に至っては核家族化、少子高齢化が急速に進み、児童虐待、更に高齢者の孤独死と、家庭問題一つ取り上げても深刻な事態に陥っています。
戦後60年余り経ちますが、「わたしたちは何をしてきたのか」、「どうしてこうなってしまったのか」、本当に問わなければならない時代にきています。河のほとりで自分の生き方をつらつら省みた磯部のように…。
「人生」とは、『広辞苑』では「人がこの世で生きること」とあります。「クオリティ・オブ・ライフ」という言葉を最近よく耳にしますが、むしろ生きることの「質」を問うていく生き方といってよいでしょう。最近の「脱サラ」また、「熟年離婚」などはそのような背景があってのことでしょう。
昔からこんな言葉があります。「欲深き人の心と降る雪は積もるるほどに道を忘るる」。冬になり雪が降り始めます。最初は道が見えているのですが深く積もってきますと、道が見えなくなってしまいます。それと同じように人間の欲望も積もれば積もるほど「人としての道」を忘れてしまう。見失ってしまうということでしょう。
確かに衣食住は人間が生きるうえにおいて欠かせない事です。そしてまた、そのために一生懸命働くのです。しかし、「それだけか」「それだけであったのか」を、今日のわたしたち一人一人が問うてみる必要があります。何か大切なもの、かけがえのないものを失ってしまっているというのが誰しもが抱く思いではないでしょうか。