ラジオ放送「東本願寺の時間」

渡邊 浩昌(三重県西願寺)
第4話 老、病、死を見ることの大切さ [2007.7.]音声を聞く

おはようございます。
今から2500年ほど前、北インドの国にお釈迦様はお生まれになりましたが、29歳のときに出家されています。お城の東の門を出られたときに老人を、南の門から出られたときには病人を見、西の門から出られたときにはお葬式、つまり死者を見られます。そして北の門から出られたときに出家し道を求める人に出会われています。それが出家の動機だったといわれています。この話は4つの門から出て遊ぶという字を書いて、「四門出遊」といいこのお釈迦様の出家の動機、老病死を見ることが今日において最も忌み嫌い、目を背けることになっています。
私は7年ほど前、甲状腺の病気で急遽入院する事になり、神経内科の病室に入りました。約1か月半の入院でしたが病室は6人部屋で、ほとんどが70歳80歳のお年寄りの方でした。私は53歳でしたが、その入院生活の中で、「老い」というものがどんなものかを身をもって知る事ができました。
まず、朝6時過ぎだったと思いますが、みんなのオムツ替えから1日が始まります。窓を一斉に開けますが、その臭いが部屋中にこもります。私にはその必要は無かったのですが、中にはオムツ替えのとき、またすぐにもれ、看護婦さんに替えてもらわなければならない人もいました。まだ70歳ぐらいの方だったと思いますが「情けない!」と泣いておられたのを憶えています。また誰も面会に来てくれない人、来てくれても愚痴をいい、当り散らす人、ひたすら孫のことを心に懸けている人、まさに愛憎の世界そのものでした。老いの孤独感と無力感、そこからくる愛着心が一層その人の苦しみとなっていたように思います。
今日、少子高齢化がどんどん進んでいます。国立社会保障・人口問題研究所が推計したところ、2055年には65歳以上の高齢者が人口の4割に達するといわれています。その頃になると、老老介護の問題など深刻な状況になってきます。できることなら「PPK」つまり「ピンピンと元気でコロッと死にたい」という言葉がよく語られるのはそのような状況があるからです。
そんなことがあってでしょう。異常なほどの健康ブームに今日なっています。健康である事は大切なことですが、健康である事が人生の第一目的になり、健康のために生きているという逆転した人生観のようになってしまっています。だから、「病気になったら、寝たっきりになったらおしまい」ということになるのです。現実にはおしまいになれないのですが…。
このように老いる事、病むことが深刻な状況になっているにも拘らず、ますますそれが隠され、排除されています。
「死」も同じ事です。本来葬儀とは「死臭、死者の臭いをかぐ」ものといわれてきたのですが、今日ではきらびやかで、合理化された葬儀になっています。そういう意味では「死」もまた覆い隠すような葬儀になってきているといえます。さらには葬儀自体の省略化も都会では増えてきていると聞きます。かつては家で死んでいったおじいさんやおばあさんの姿を見て、人間が生きるうえでの大切な事を学んだのではないでしょうか。カブト虫が死んだのをみて「カブト虫の電池が切れた」といった子どもの話を聞いた事がありますが、本当にゾッとする話です。
また、最近では前世がどうの来世がどうの、死んだ人が雲になってとか、風になってとかのテレビ番組や歌が流行っています。癒しにはなるかもしれませんが、癒しは一時的なものです。もっと現実を直視する事が大切です。つらいこと、苦しい事かもしれませんが、その向かい合った現実そのものが教えてくれるものがあるはずです。
哲学者の西田幾多郎氏は37歳のとき、満4歳になる次女と生まれたばかりの五女を相次いで亡くしています。その時『思索と体験』という本の中で次のような文章をかいています。
「…今まで愛らしく話したり歌ったり、遊んだりしていたものが、たちまちに消えて壷中(つぼの中)の白骨となるというのは、いかなるわけであろうか。もし人生はそれまでのものであるというならば、人生ほどつまらないものはない。ここには深い意味がなくてはならぬ…。死の問題を解決し得て、始めて人の生の意義を悟る事ができる…」と。
お釈迦様の出家の動機、「老病死を見る」ということから避け逃げるのではなく、そこから生きる意味を見出す事が大切な事でないでしょうか。

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