おはようございます。前回に引き続いて、「今、いのちがあなたを生きている」という、親鸞聖人の七百五十回御遠忌テーマを中心にお話したいと思います。第1回の前回では、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、受け取る自分の立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということを申しました。今日はその「南無阿弥陀仏の伝統・伝承」についてお話したいと思います。
最初に、親鸞聖人の場合は南無阿弥陀仏のことをどのように了解されておられたのでしょうか。親鸞聖人は幼くして両親に別れられ、9歳の時、出家・得度し、お坊さんになられ、その後、29歳まで20年間にわたって、京都の比叡山で修行されたと伝えられています。親鸞聖人は何のために、20年の長きにわたって、修行されたのでしょうか。親鸞聖人の奥さんの恵信尼のお手紙によると「生死いずべきみち」を求めておられたということが分かります。生と死を出て離れるみち、「生死いずべきみち」とはどういうことでしょうか。前回、有限なるいのちということを申しましたが、私たちが人間として、この世に生まれたということは、ひとりの例外もなく、必ず死んでいくということです。どんなに長生きしたところで、私たちは限りあるいのちを生きているということです。私たちは生まれて成長していくと、自分自身が最終的には死んでいくということを知ってしまいます。そのことが自分自身の問題になってきますと、いろんなことが、頭を巡らすことになります。自分は何のために生まれてきたのであろうか。何をするために生まれてきたのであろうか。何をすれば本当に満足するのか。自分が死ぬとはどういうことであろうか、等々。これらの問題は容易に答を見出すことができません。大変、困難な問題だと言わなければなりません。親鸞聖人の場合も、いのちを削っての、懸命な修行にも関わらず、「生死いずべきみち」の解決を得ることができませんでした。遂に、比叡山での修行を断念し、山を下りて、京都の中心地にある、聖徳太子をおまつりしている「六角堂」に100日間、籠られました。その95日目に夢の中で、法然上人のところにいくようにと告げられ、その後、法然上人のところに通うことになります。法然上人も比叡山で長きに渡って修行をされたわけですが、ずっと前に、山を下りておられ、京都の東山のふもとで、お念仏の教えを広く一般大衆に説かれていたのです。そのお念仏の教えを、来る日も、来る日も聞かれ、遂に念仏申す身になられたのでした。その時の出来事を、『歎異抄』で、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人の言葉として、述べられています。親鸞聖人にとって、「生死いずべきみち」の答が、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということであったわけです。お念仏申す身に親鸞聖人はなられたのです。長い長い月日を経て、南無阿弥陀仏が親鸞聖人のところまで届いたのです。
法然上人に出遭い、お念仏申す身になられてみると、その南無阿弥陀仏には長い長い歴史があることに、親鸞聖人は気が付かれました。思えば、遠くインド、正確にはネパールにお釈迦様が生まれられて、仏教を説かれてから、千数百年を経ており、そのお釈迦様から、多くの念仏者の方々によって伝えられ、ようやくにして、親鸞聖人のところまで届いたのでした。そのときの感激はいかばかりであったことでしょう。
親鸞聖人は南無阿弥陀仏の伝統・伝承を、後に、「正信念仏偈」でインドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本の源信僧都そして、直接、出遭われた法然上人の7人の方を七高僧として賞賛されています。この七高僧は多くの念仏者の代表者ということでしょう。多くの無名の念仏者が生まれ、その念仏者の代表として、七高僧として揚げられたのでしょう。
第2回の今日は、親鸞聖人が法然上人に出遭い、念仏申す身になられたこと、そして、その南無阿弥陀仏はお釈迦様から、多くの念仏者を通して伝えられ、親鸞聖人まで届いたことについてお話しました。次の第3回は、親鸞聖人以降、南無阿弥陀仏がどのように伝統・伝承されたかを中心にお話したいと思います。