おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しております。今日は第4回になります。
このテーマは、受け取る自分の立場から言えば、「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということでお話を進めています。前回は越後に流罪になられた親鸞聖人が関東に移住し、そこで、「いなかのひとびと」の中に南無阿弥陀仏が伝承されていったことについて述べました。
今日は、およそ20年間の関東での生活に別れを告げ、京都に帰られた、親鸞聖人についてお話を進めてみたいと思います。60歳を少しすぎた頃、京都に戻られたと言われていますが、正確な時期は分かっていません。と言いますのも、親鸞聖人は自分自身の出来事について、ほとんど書き残されていないのです。昨今、「自分史」を書き残すことが流行っているようですが、そこで書かれるようなことのほとんどを、親鸞聖人は書き残されていないのです。そのような親鸞聖人が、京都に戻られての生活は、90歳で亡くなられる直前まで、いわゆる執筆活動に費やされています。関東時代には人々に直接、お念仏の教えを伝えていたのですが、それに対して、京都時代はお念仏の教えを書き残すために、全精力を費やされたと推察されるのです。主著であるところの『教行信証』をはじめ、多くの教えを書き残されています。最後の著述は88歳の時です。何が、そのように親鸞聖人を揺り動かしたのでしょうか。それは、一言でいえば、親鸞聖人亡き後の人々のためであったと思われます。法然上人から教えられたお念仏の教えを将来・當来の人々にぜひとも書き残しておきたいという大いなる願いです。親鸞聖人は『教行信証』の最後のところで、七高僧のひとり、中国の道綽禅師の『安楽集』を引かれています。それは、「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続、無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」というお言葉です。これは、法然上人によって、南無阿弥陀仏を申す身になった親鸞聖人が、その南無阿弥陀仏がずっと伝えられていくように願って、書き残されたのであるということです。
親鸞聖人亡き後の歴史を見れば、多くの著述を残されたということが、いかに大事なことであったかが分かります。このことについては来週述べることにします。
このようにして、親鸞聖人は京都で、静かに息を引き取ります。90歳の時でした。当時としては、非常に長生きな御一生でありました。思えば、親鸞聖人の生涯は、まさに仏法ひとすじに自ら歩まれ、また、多くの念仏者を生み出されたと言えるでしょう。
しかしながら、世間的に見れば、決して順風満帆な道ではありませんでした。幼くして両親と別れ、比叡山での20年間の修行を断念した後、法然上人との出遭いにより念仏申す身になったかと思えば、流罪となり、別れ別れの道を歩まれることになりました。まさに業縁のままに、念仏者として、一切を受け容れて生涯を全うされたと言えるのではないでしょうか。お念仏申す身になること、そして、そのお念仏が伝わっていくことは、順縁、順調な恵まれた縁、またその反対の、逆縁が共に大いなる御縁となって、初めて可能なことであると、つくづく痛感致します。特に、逆縁と言われる御縁こそ、自分自身にとっては大事な仏縁になるのではないかと、これまでの自分の生活を振り返り、感じることです。
今日は、京都に戻られた親鸞聖人の、90歳で亡くなられるまでの、およそ30年間の執筆活動に費やされた生活の意義についてお話し致しました。来週は親鸞聖人が亡くなられた後、お念仏、南無阿弥陀仏はどのように伝わっていったのかを中心にお話したいと思います。