ラジオ放送「東本願寺の時間」

鳥越 正道(熊本県 光寂寺)
第3話 今、いのちがあなたを生きている [2007.11.]音声を聞く

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しております。今回は3回目になります。
前2回では、このテーマは、受け取る自分の立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということを述べました。そして、親鸞聖人が法然上人に出遭い、お念仏申す身になられたことをお話しました。今日は、その後、どのように南無阿弥陀仏は伝わったのかを中心に述べてみたいと思います。
その歴史は一言で言えば、波乱万丈の歴史であったと言えるのではないでしょうか。前回、親鸞聖人が29歳の時、京都東山でお念仏の教えを説かれていた法然上人に出遭い、念仏申される身になられたことを述べましたが、その東山の念仏の集いには、多くの名も無き大衆がおられました。法然上人の教えは非常に簡明で分かりやすい教えでした。それは、どのような人でも、お念仏申せば、淨土に往生し、仏様になれるというものでした。お念仏申すこと以外は一切、往生の条件にはならないと言う教えでした。それは今までの仏教の教えから見れば、画期的なものでした。それまでの教えは、親鸞聖人や法然上人も出家して、比叡山で修行されたように、世間の色々なしがらみを断ち切って、戒律を守り、修行し悟りを求めるというものでした。それに対して、法然上人の念仏の教えは、出家や戒律を守ること、修行することも必要ではないというものだったのです。そのために、それまでの仏教の教団は、法然上人の淨土宗を処罰するように、朝廷に訴えたのです。その結果、淨土宗は解散させられました。さらに、法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へ、そのほか6人の方が流罪になりました。それだけではなく、法然上人のお4が死罪となったのです。それは親鸞聖人が35歳の時でした。本年2007年はその流罪の年から丁度800年に当たります。今年の春、流罪の地である、現在の新潟県上越市において、越後御流罪800年の法要が営まれました。親鸞聖人は流罪によって、法然上人と別れ別れになり、その後一度もお会いすることはありませんでした。しかし、法然上人に出遭い、念仏申す身になられたことを生涯、大切な御縁として、頂いていかれました。
さて、その後、親鸞聖人は39歳の時、流罪を許されましたが、京都には戻らずに、42歳の時、関東に移住されました。現在の茨城県笠間市を中心におよそ20年に渡って、お念仏の教えを広められました。この20年の間に関東一円に多くの念仏者が生まれました。当時の関東は田舎であり、そこに住んでいた人々はまさに「いなかのひとびと」でした。それまで、その「いなかのひとびと」は、仏教には無関係に生きておられたのではないでしょうか。その関東の地で出会われた人々は、『歎異抄』で、親鸞聖人が、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠(でんぱく、たはた)をつくりてすぐるひとも」と述べられているような人々でした。ここで述べられている、漁業をなりわいにしている漁師、狩猟をなりわいにしている猟師は、殺生せずには生きていけない人々でありました。生き物を殺さないというのは、戒律の第一に揚げられるものです。それまでの仏教はそのような人々に対して、いわば、門前払いの状況であったのです。そのような人々にとって、親鸞聖人のお念仏の教えは、漁業、狩猟、商売、農業、などをなりわいに生活しながら、その生活のところにそのまま、お念仏の生活がひらかれているのであるという教えでありました。このように、それまで全く仏教とは無縁に思われていた人々に、南無阿弥陀仏が伝承されていくことになりました。親鸞聖人にとって、このような「いなかのひとびと」との出会いは、本当のともだちとの出会いであったと言えるでしょう。親鸞聖人は、そのともだちを「御同朋・御同行」と呼ばれ、生涯忘れることはありませんでした。
今日は流罪を御縁として、「いなかのひとびと」と出会い、その「いなかのひとびと」の中に、お念仏の教えが引がり、南無阿弥陀仏が伝承されていったことを述べました。次回は、その後の親鸞聖人を尋ねてみたいと思います。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回