ラジオ放送「東本願寺の時間」

鳥越 正道(熊本県 光寂寺)
第5話 今、いのちがあなたを生きている [2007.12.]音声を聞く

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しています。今回は第5回になります。
このテーマは、受け取る自分の立場から言えば、「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということで、お話を進めています。前回は、親鸞聖人が、京都で亡くなられるまでの、およそ30年間の大半を、後世の人々のために、念仏の教えを書き残されたことについて述べ、その事が、その後の歴史を見れば、非常に大事なことであったということを指摘しました。今日は、そのことについて、述べてみたいと思います。
親鸞聖人のお念仏の教えを直接聞かれた人々の多くは、関東に住んでいた方でした。42歳から、およそ20年間にわたっての、いわゆる布教活動により、多くの念仏者、御同朋御同行の人々が生まれてきたことを第3回で述べました。その後、親鸞聖人は京都に戻られてからは、直接、お念仏の教えを広めるというよりも、その教えを書き残すことに精力を費やされました。その晩年においても、関東の御同朋御同行の間において、親鸞聖人の教えをめぐって、それぞれ異なった受けとり方をする人たちがでてきたことが、唯円の『歎異抄』などを見ると分かります。また、京都におられた親鸞聖人のところまで、お念仏の教えを直接尋ねに来られたことも、同じく『歎異抄』に記されています。これらのことは私たちに何を教えているのでしょうか。親鸞聖人生前中においてさえ、親鸞聖人のお念仏の教えをめぐって、すでに、受けとり方の違いがおきていたのです。まして、親鸞聖人が亡くなられた後のことは、どのようになるのか、容易に推察されるのではないでしょうか。このようなことは、親鸞聖人にとって身に覚えのあることでした。それは法然上人に直接教えを受けた人々の間においても、同じようなことがあったからです。法然上人の淨土宗の了解も受け取る人々によって、少しずつ、異なってくるということです。おそらく、このような経験から、法然上人から教えられた淨土宗、お念仏の教えを、力の限り、書き残しておきたいと願われたのではないかと思います。
このことがやがて重要な意味をもってくることになります。少し時代はとびますが、本願寺の第8代の蓮如上人が後を継がれた頃の本願寺は、参詣者もほとんどなく閑散としていたと伝えられています。現在の東西の本願寺から見れば、想像もできないような状況だったのです。この蓮如上人は淨土真宗を再興された方として、親鸞聖人と共に、現在に至るまで、大きな影響を与えています。蓮如上人は6歳の時、事情があり、母親が本願寺からひとり出て行かれます。その母親が別れの時、幼い蓮如上人に向かって、親鸞聖人の淨土真宗を再興して欲しいと言い残して、去っていかれたと伝えられています。蓮如上人の御一生は正に、その母親の願いである真宗再興ひとすじに歩まれたと言えるでしょう。蓮如上人は43歳で、本願寺第8代を継がれるまで、長年にわたって、親鸞聖人が書き残された『教行信証』や『和讃』を始め、多くの淨土真宗に関するお聖教、書物を学ばれています。『教行信証』その他、蓮如上人が書き残されたものが現在でも伝えられています。8代目を継がれてからは、新しいことを試みています。その第一は門徒さんへのお手紙です。このお手紙は『御文』や『御文章』と呼ばれています。その内容の中心は「信心」に関することです。蓮如上人はこの『御文』の中で、しばしば、口で南無阿弥陀仏を称えただけでは不十分であり、南無阿弥陀仏のいわれ、意味を聞いていくようにと教えられています。第二は、「正信念仏偈」と「和讃」を出版されたことです。そして、その「正信念仏偈」と「和讃」による朝夕の勤行・お勤めの形を決められたことです。このことによって、各門徒の家庭の中で、お念仏が自然に伝わっていったのです。これらのことが、今日まで南無阿弥陀仏が伝統・伝承されてきたことに大いに寄与してきたと言えるでしょう。
今日は、蓮如上人が果たされた非常に大事な役割について述べました。今日まで、南無阿弥陀仏が伝統・伝承されてきた大きな要因として、このことを揚げておかなければなりません。来週はいよいよ最終回になります。

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