ラジオ放送「東本願寺の時間」

伊奈 祐諦(愛知県 安楽寺)
第1話 人と生まれて いのちの誕生を考える [2007.12.]音声を聞く

みなさん、おはようございます。たいへん寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。夏があまりにも暑い夏でしたので、冬の寒さが身にこたえます。今年も後残り少なくなってきました。今年中にあれもしたい、これもしたいと心は落ち着きません。でも、時はお構いなくどんどん過ぎ去って行きます。
農民詩人の村上志染という方にこんな詩があります。
方一尺の天地、水馬しきりに円を描きける
汝いずこより来たり
いずれに旅をせんとするか
ヘイ忙しおましてナ
方一尺とは一尺四方の狭いところをいう意味であります。せっかく、広大な天地自然に生を受けながら、水馬は一尺四方の狭いところをグルグル回っているのでしょう。なんといって回っているかといえば、「ああ、忙しい、ああ、忙しい」と回っているのです。
村上さんは、野良仕事の手を休め、土手に腰をかけ、ふと水面に目をやると水馬の光景が飛び込んできたのでした。水馬の姿を通して自分の姿をみた村上さんは、その水馬に声をかけました。
「汝いずこより来たりいずれに旅をせんとするか」水馬、あなたはどこから来てどこへいこうとしているのですか。と、しかし、水馬は答える暇もなく、忙しそうにグルグル回っているばかりです。水馬は私たちの姿でした。朝から晩まで、自分の関心ごとに追いまくられ、損得のそろばん勘定に振り回され、本当の私を見失っている姿そのものでした。
あなたはどこから来て、どこへゆくのか。と、尋ねてくださるお方が仏様であります。仏様は雲の上のお方ではなく、私たちのいのちをわがいのちと背負うておられるのが、仏様でした。
仏様はわたしのいのちの願いをよびさまして、「あなたのいのちはあなたのものではなく、あなたを生み出した過去無量のいのちからお預かりしたいのちですよ」と、呼びかけられています。それがお念仏であります。仏様は南無阿弥陀仏と名のってそのいのちを開いておられるのです。
私たちは、よく「私のことは私が一番良く知っている」とか。「私のことは私が一番大事にしている」といいますが、果たしてどうでしょうか。もちろん、思いかなう時はもろ手をあげて、引き受けることができます。その反対に、何もかも思うようにならないと、人のせいにしたり、やけっぱちになったりしませんか。
ある先生のお話に、「いのち」は3つの真理がある。と申されました。
1つは親を選べないこと。
2つは時を選べないこと。
3つは環境を選べないこと、であります。
誰一人として自分の意志で親を選んで生まれてきた人はいません。しかし、親なくしてこの世に生まれてきた人は一人もいません。
誰一人として時を選んで生まれてきた人はいません。しかし、時なくしてこの世に生まれてきた人は一人もいません。
誰一人として環境を選んで生まれてきた人は一人もいません。しかし、環境なくしてこの世に生まれてきた人は一人もいません。
私たちのいのちは、私たちの考えや思いを越えて、この世に人として生まれたのでした。そのいのちを自分勝手に踏みつけているのが、水馬のような生き方をしている私自身ではないでしょうか。
夏の暑いときは、いのちの躍動を感じますが、冬の寒さはいのちの厳しさと暖かさを教えてくれます。冬になると秋の紅葉も散り、草木は冬の眠りにつきます。静かに自分自身を見つめる時ではないでしょうか。そんなとき、「ああー、みんな、精一杯、生きているんだなー」と、いのちの鼓動が聞こえてきます。しかし、「生きる」ということは、肉体のいのちのみを表す言葉かといえば、そうではないと思います。今は亡き父親の言葉に、「無常なるが故に、今日、一日のいのちがありがたいのです」とありました。
肉体のいのちは、終わっていきましたが、生前中の言葉は今も生きています。人は言葉となって、願いのなかに生きています。
親鸞聖人750回御遠忌法要テーマ「今、いのちがあなたを生きている」をみんなで考えましょう。

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