ラジオ放送「東本願寺の時間」

伊奈 祐諦(愛知県 安楽寺)
第6話 真宗門徒の自覚と実践について、いのちを考える [2008.1.]音声を聞く

みなさん、おはようございます。今回で私のお話も最後となります。来る2011年(平成23年)にお勤めする、親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」のもとに、お話しして参りました。第6回は真宗門徒の自覚と実践について、お話いたします。
親鸞聖人の90年によって、あきらかにされましたお念仏のみ教えは、今、この私たちまで届けられ、ここにお念仏に生きる身とさせて頂きました。そのご苦労に感謝せずにはおられません。そうしたお念仏に遇いえたいのちの喜びを、親鸞聖人は、「御同朋・御同行」と敬い、呼びかけておられます。御という語は敬いのこころを表す言葉であります。「同朋」とは、同じ命を生きるものという意味であります。つまり、「御同朋」とはお念仏によって開かれる、いのちといのちの出あいであります。また、「御同行」とは、共にお念仏に生きるいのちの確かめでもあります。聖人、お亡くなりになって746年になります。肉体のいのちは、すでにこの世を閉じ、遠い過去のお方となられましたが、親鸞聖人は今もお念仏の中に生きておられます。それが「御同朋・御同行」のお呼びかけであります。
私たちの真宗門徒の家庭では、お仏壇を「お内仏さま」といただいてきました。毎朝、お仏供をお備えし、お明かりを灯して、「お正信偈」のお勤めをすることを、真宗門徒としての生活の中心としてきた伝統があります。
それにもかかわらず、私たちは、今、仏様とあまり関係のない生活をしているのではないでしょうか。よく、「私の家はまだ、亡くなった人がいないので仏壇はありません。」ということを、よく、耳にしますが、このようなところに、現在の私たちと「お内仏」とのかかわりが象徴されています。たとえば、亡くなった人がいないのに、お仏壇を求めてはいけないとか、縁起が悪いとか、さまざまな誤解と偏見によって、本来の世界をゆがめてはいませんでしょうか。
私たちは、先祖の方々から「お内仏」として教えられ、伝統されてきた、その「お内仏」を、いつの間にか、先祖をまつる先祖壇にしたり、自分の勝手なお願い事を祈る依頼壇にしてはいませんでしょうか。
私たちの「お内仏」は中央にご本尊として阿弥陀如来の御絵像の仏様が掛けられています。それは阿弥陀如来を本尊として生きるということを表しています。
自己中心的な自分勝手な生き方を願って生きている私たちに、阿弥陀如来は、いただいたいのちの尊さに目覚め、身の事実をひきうけて生きてほしいと、願いかけておられます。
ご本尊をとおして阿弥陀如来の本願を聞きあて、私たちの本当の在り方に出遇っていくその場を「お内仏」としていただいていくことを、私たちのご先祖方は教えて下さったのではないでしょうか。
「本尊」とは、本当に尊いこと、という意味であり、物ではありません。
私たちは、いつの間にか「本当に尊いこと」を自分の都合で、「私にとって尊いもの」に置き換えているのではないでしょうか。
生きとし生ける「いのち」そのものを、自分の都合で、「もの」として、何の痛みも感ぜず平然としていられるという、現代社会の問題も、じつはそこにあるのではないでしょうか。
「本尊」とは、私たちに、まさに「本当に尊いこと、あなたの本当に尊い事実をあきらかにせよ」と教え示す「はたらき」そのものであります。
私たちはたくさんのいのちをいただいて生きています。そして、いろいろなたくさんのいのちのはたらきのなかで、いま、私をたまわって生きているのです。
「共なるひとつのいのち」を生きているのです。
如来の本願の教えにわが身の姿が問われ、いのちの事実に目覚めていく、そこに「お内仏」を中心とする真宗門徒の自覚と実践が開かれてくるのではないでしょうか。
ある念仏者の一人「三味線婆ちゃん」こと岡部つねさんの言葉に
ナムアミダブツ
たとえ自分で建てた家でも自分の家でないのや家主さんは如来さんで自分は留守番しとるだけやがな
という言葉があります。お念仏の世界に目覚めてみると、もうひとつ大きな世界が開かれてきます。親鸞聖人750回御遠忌法要テーマ「今、いのちがあなたを生きている」は、その世界からの呼びかけではないでしょうか。
6回にわたり、お聞きくださいまして、ありがとうございました。

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