ラジオ放送「東本願寺の時間」

伊奈 祐諦(愛知県 安楽寺)
第4話 私たちはなぜ苦しみ悩むのか [2008.1.]音声を聞く

みなさん、おはようございます。いかがお目覚めでしょうか。たいへん寒くなってきました。今回は私たちのこころの悩みや苦しみについて考えてみたいと思います。
先日、あるお寺の集まりで、戦後62年、戦前戦後を生きてこられたお年寄りに「戦前戦後を生きてこられて、今の時代をどう思われますか。」と尋ねると、「今は戦時中の事を思えば、極楽です」と、大半の方から答えが返ってきました。確かに物は豊かになり、便利で快適な生活が得られるようになってきました。
しかし、そういうお年寄りの顔の表情は暗く、眼には輝きが見られません。物は豊かになり、快適な文化生活を営みながら、何故、私たちの心は暗いのでしょうか。社会の歪みは、自分ではわかりません。それは弱いところに現れてきます。それが児童虐待や育児放棄、家庭内暴力、尊属殺人、自殺などの悲しい出来事となって現れてきているのではないでしょうか。
書家の相田みつをさんの言葉に、「弱きもの人間欲ふかきものにんげん偽り多きものにんげんそして人間のわたしみつを」があります。
この言葉には単なる人間を批判した言葉ではないと思います。人間であることを念ずれば念ずるほど、見えてきた人間の姿でありましょう。念ずる心がなければ、その姿は見えてきません。人間の喜びも悲しみも、人間であることを念ずるところから見えてくる世界であります。
では、いったいどうしたら「人間であることを念ずる」事ができるか。それはたいへん重要な問題であります。日常生活の中で、努力して求めることも良い事でしょうが、なかなか思うように見えてきません。
しかし、「見ようとしても、なかなか見えない。」その自覚こそ大切ではないでしょうか。さまざまな人間関係のなかにあって、私たちはその自覚を見失っているのではないでしょうか。
本願寺八代蓮如上人のお言葉に「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。」というお言葉があります。
他人の悪い事は、よく目につくが、自分の悪い事はなかなか自覚できない。ということではないでしょうか。
もし、少しでも、自分が悪いと気がついたなら、それはよくよく悪い事の故、気付いたことであるから、心をあらためて、人の云う事を正しく聞きましょう。と、語られています。私たちは自分の悪い事は、自分自身ではなかなか気付くことはできません。そうした、無自覚のわたしを無自覚であったと知らしめてくださるはたらきがお念仏であります。
お念仏によって、「本当のわたし」に出会うとき、「わたしがわたしに成る」事が出来るのでありましょう。ごまかしたり、飾る必要のない私との出会いであります。
自分の事は自分でしかわからない。誰も私のことをわかってくれない。という苛立ちからは、本当の自分は見つかりません。そこから、次から次へと悲劇が繰り返されて来るのではないでしょうか。本当でない私を本当の私と錯覚してしまうのであります。それを仏教では煩悩と教えられています。
明治の先覚者、清沢満之(きよざわまんし)先生は、人生の一大事を
「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」とのべられています。
お念仏によって照らされ、自覚され、本当のわたしに出会うとき、人は誰しも苦しみや悲しみから解きほぐされ、自由の身になることができるのではないでしょうか。
「いのち」は、「死んだらおしまい」「死んだら火に焼かれて灰になる」と、考えられます。その意味では、親鸞聖人も、今から746年前、亡くなられた遠い過去の方であります。
しかし、親鸞聖人は決して過去の人ではありません。お念仏に生きる聖人のいのちは、今、ここに「御同朋・御同行」と、生きておられるのであります。
「御」という語は敬いの心を表わす言葉であります。「同朋」とは同じいのちを生きる者という意味であります。つまり「御同朋」とは、お念仏によってひらかれるいのちといのちのであいであります。また「御同行」とはともにお念仏に生きるいのちのたしかめでもあります。

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