ラジオ放送「東本願寺の時間」

伊奈 祐諦(愛知県 安楽寺)
第2話 人として生きる。人間の苦悩に学ぶ [2007.12.]音声を聞く

みなさん、おはようございます。いかがお過ごしですか。毎日、寒い日が続きます。前回はいのちの誕生についてお話いたしました。今回は「人として生きる」ということについて考えてみたいと思います。
最近、歳のせいか、一年一年がとても早く感ぜられます。子どものころは一年がゆっくり感じられましたが、最近は忙しいせいか一年がとても早く感じられて仕方がありません。
「忙しい」の「忙」はリッシン偏に亡くなると書きます。したがって、「心が亡ぶ」という意味になります。日常生活においては「忙しい」ということは、たいへん結構なことであります。また、たいへん有り難いことであります。では、何故「忙しい」ことが「心が亡ぶ」といわれるのでしょうか。
本願寺八代蓮如上人のおことばに、「仏法のうえには、毎事に付きて、空おそろしき事と存じ候うべく候う。」というお言葉があります。
世間の常識から言えば、忙しいことは有り難いことですが、仏法のうえから考えてみると、「空おそろしき事」である、と、蓮如上人は警告されています。
「空おそろしき事」とは、あてにしながらあてにならない現実を言い当てた言葉であります。現実は時と相手によりコロコロ変わってしまうものです。
従って、世間の事がらはすべて変化し、定まるものはひとつも無いという事であります。にもかかわらず、私たちは何もかも自分の思いで無理に定めようと苦しみ、ときには力ずくで自分の思いを押しつけようとする。今日における痛ましい事件の背景がここにあると思います。
「自分のことは自分が一番知っている。自分のことは自分が一番大事にしている」と、よく言いますが果たしてどうでしょうか。
いざとなると、ノイローゼになったり、やけっぱちになって、暴れたりしているのが「私自身」ではないでしょうか。そうした私の本当の姿を知らしめ、私のすべてを受け止めてくださるのが阿弥陀如来の本願であります。お念仏によって私のすべてが知らされるのであります。お念仏によって、一刻もはやく出遇わねばならない人は、「本当の私」であります。
昔、真宗門徒の家庭では食事のとき、「一粒のご飯も残さずに食べなさい。」とか「一粒のご飯も粗末にしてはいけません。」と注意されたとよく聞きます。そこには一粒の米にもこの私の命をささえるいのちが宿しているということでしょう。一粒の米には一粒のいのちが宿しています。今、その生命が見失われて、生命そのものが物質化して考えられているのではないでしょうか。
現代は物の豊かさと便利さを極端に求めるあまり、いのちそのものが見えなくなってきたと言ってもよいでしょう。
日夜、報道される事件や事故のなかで、最近、特に感ずることは、家庭における殺人事件が多い事です。親が子を殺し、子が親を殺す事件。夫が、妻が、兄が、妹が、家族のなかでの人間関係が怪しくなってきました。
本来、家庭は気の休まるところであり、こころの許せる安らぎの場であったはずです。なのに、今、何故、その場がいがみ合い、傷つけ合い、殺しあう場となってきたのでしょうか。その原因はどこにあるのでしょうか。「人間とは何か」という問いかけが一人ひとりの上に問われなければならないと思います。
仏教では人間の苦しみや迷いを六道輪廻と教えています。
六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の世界であります。
地獄は身も心も置きどころの無い、居場所が無い苦しみです。
餓鬼は有るのに有ることに気づかない、不平、不満の苦しみです。
畜生は何ごとも他人のせいにして、自己の問題とならない苦しみです。
修羅は自分の思い通りにならない、怒る苦しみです。
人は苦悩をかかえた迷いの苦しみです。
天は人間知性による理想の世界であります。しかし、有頂天の苦しみがあります。
六道とは人間そのものの姿であり、その苦しみから解放される道を開くのが仏教であります。そして、その道を南無阿弥陀仏と生き抜いた人が親鸞聖人であります。

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