みなさん、おはようございます。いかがお過ごしでしょうか。
私たちは毎日、健康であることを願い、健康に過ごすために日夜さまざまな努力をしています。もちろん、健康であることはとてもありがたいことであります。しかし、どんなに医学が進歩しても、私たちの健康に対する不安は根本的に解決しません。医学の進歩はたしかに私たちに大きな幸せをもたらし、一人ひとりの健康増進に大きく寄与しています。そのお陰で、日本における平均寿命も延び、世界各国から注目されるところであります。しかし、その反面、若くして病気にかかり、幼くしていのちを失う人も後を絶ちません。健康であることは、誠に尊いことではありますが、それは人間の努力によって全てを左右することはできません。お互いに健康でありたいと切実に願うことでありますが、生身の身体を持つ身ですから、いつ何時、病にかからないとは限りません。
私の叔父に伊奈教勝という人がいました。伊奈教勝という名は、この世に生を受けたとき両親をはじめ家族の人々に心から祝福されて名付けられた名前でありました。1922年真宗大谷派のお寺の次男として生まれ、大切に育てられた人の名でありました。
この伊奈教勝は1945年ハンセン病を発病し、1947年から長島愛生園に隔離されて以来40有余年「人間」を放棄させられ、存在は否定され、身を隠し「藤井善」と名を変え、ひたすら身を潜めて生活しなければなりませんでした。当時、法律「らい予防法」によって、ハンセン病を病んだ人は、一般の社会人とは隔絶され、らい撲滅運動といって、各県ともハンセン病患者は、強制隔離されてきました。しかし、誤った考え方にもとづく「らい予防法」は1996年廃止され、国として謝罪の意を表し、少しずつ病気に対する正しい認識ができて参りました。叔父はその前年1995年12月26日、73歳で亡くなりました。
私が叔父の存在を直接父親から聞かされたのは、高等学校に入学する1962年のころでした。それまでは直接、誰からも叔父の存在は聞かされていませんでした。しかし、ハンセン病のことは、中学生の授業で先生から聞かされ、私たちのまわりにも、この病気にかかり、本人はもとより家族の者まで差別と偏見をうけ、たいへんな苦しみと悲しみにあわれたと聞かされました。自分自身はその時まだ叔父の存在を聞かされていませんでしたので、何となく、他人事とは思えずに、聞いたことを今も記憶しております。何故ならば、現実に家族の古い写真帖を見ると所々写真がはがされ、また古い本には表紙裏に「教勝」という名の書かれたものもあり「どうしてかなー」と疑問が広がり、心の片隅に何かが秘められていることに気付くようになりました。
家族の中でも、叔父の存在はひた隠しにされ、いないことになっていました。叔父自身も、自分さえじっと我慢して息をこらして、やがて、静かに目をつぶったら、これですべてが終わると考えていました。
叔父は故郷に迷惑がかからないようにと、長島愛生園に入所したとき、本名「伊奈教勝」を捨てて、「藤井善」と自らを名のりました。
しかし、叔父は1989年、捨てたはずの名、伊奈教勝を取り戻し、本名を名のることを決心して、ハンセン病の正しい理解と知識を人々に訴え、講演活動を始めました。
叔父にとって、本名を名乗ることは、苦渋の選択であったと後に語ってくれました。自分が本名を名のることで、故郷にどういうことが起こるか。最悪のことも心配であったと述べておられました。
しかし、そのことによって、何が起ころうとも、本名を名のらなければ、第一歩がはじまらないと決断して、入所以来42年の沈黙を破って、「伊奈教勝」の名を取り戻したのでした。
叔父の言葉によれば「人間とは関係としての存在であります。お互いに「いのち」の尊厳を侵さないことが基盤でなければなりません。本名を名のるということは、私の「いのち」の尊厳を明らかにし、人間解放への宣言であります。それはまた同時に、他者の「いのち」の尊厳を確認することでもあります」と述べておられます。人は仏、一般に言うところの仏様、その悲しみに触れて、初めて、命の尊厳に目覚めるのであります。それが捨てたはずの名前、伊奈教勝の名のりでありました。
「いつでも帰っていらっしゃい!」と故郷がとりもどされたらもう私はどこで生命が終わっても静かに眼をつぶることができると叔父は目を輝かして語ってくれました。まさに浄土の世界の回復でありました。