ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 理統(長崎県 西光寺)
第1話 いのちの宿題 [2008.3.]音声を聞く

おはようございます。
数年前、私のお寺を支えて下さるあるご門徒さんのおばあさんが、ご自宅にお参りにいくと、こんなことを私に語りはじめました。
「お仏壇への朝夕のお参りは、『早くお迎えに来てください』とアミダさまにお願いしています。歳をとっていいことは何もありませんからね。どうしてアミダさまは、お迎えに来てくださらないんでしょうか。」
と聞かれたのです。私は突然のことで返答に窮してしまいました。
特にこのおばあさんは90歳を過ぎ、足腰が弱い上、ご子息に先立たれたので、人生の悲哀が特に深かったのでありましょう。
何度も同じことを繰り返し言われるので、そのことに答えて、
「まだ、この世でしなければならない仕事が残っているんですよ」
と言うと、
「この足腰立たん婆さんに、何の仕事がありまっしょうか」
と言われました。そして、しばらくジッと考え込んで、おもむろに顔を上げ、
「そうですな、口では、『早くお迎えに来てくれ』と言っているけど、この家には何も盗る物はありまっせんが、泥棒がもし入ってきて居直られ、『婆さん命をもらうぞ』と包丁でも突きつけられたら、この婆さんでも逃げまっしょうな・・・」
としみじみ語られたのでした。
最後に私は、
「人間誰でも、自分の思い通りにならないことが目の前に立ちはだかると、すぐ死んだ方が楽じゃないかなと思うもんですよ。でも、命があるかぎり、たとえどんな姿をしていても、この世で果すべきいのちの宿題がまだ残っているんですよ。おきつうございまっしょうが、どうぞお念仏を申す毎日を過ごしてください。また、来ますからね」
と言ってその日は帰ったのでした。
その2年後、このお婆さんは96歳でお亡くなりになったのでした。
少子高齢化の時代と言われて久しくなりますが、時々こんな会話を耳にすることがあります。
「元気で達者なら長生きもいいけどね・・・」
と言葉を続けられる方がおられます。つまり我々現代人は、役に立つか、役に立たないかという有益性のはかりで、物を見てしまいがちであります。その見方がゆき過ぎると、人間の命までその価値基準で見てしまうのかも知れません。
仏教の命の見方は、働けるから、あるいは役に立つから生きる意味があるのだとは決して教えません。たとえ、寝たっきりになっても、命のあるかぎり、存在の深い意味を持っているのだと。つまり、そんな姿で、人生最後のいのちの宿題を果しているのだと。
そして、そのいのちの宿題を果してしまうと、人生の卒業式を迎えるのであります。しかも、人生の卒業式と同時に、アミダの国の入学式をさせていただくのでありましょう。
私の母は、今年2月で86歳であります。自宅にはいますが、自分ひとりでは、ベッドからとなりにあるトイレまで行くこともままならぬほど足腰が弱りました。
苦労ばっかりで、むしろ苦労する為に生まれて来たような人生だった母の姿を見て、このようなかたちで、人生最後のいのちの宿題を果しているんだと、そのささやかな手伝いをしながら、後ろ姿を拝んでいる昨今であります。

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