ラジオ放送「東本願寺の時間」

藤井 理統(長崎県 西光寺)
第3話 幸せを求めるこころ [2008.3.]音声を聞く

おはようございます。
先日、ご門徒さんから誘われて、ある講演会に出席いたしました。ご講師は、60歳ぐらいの方で、300人ほど入るホールがいっぱいでした。ご講師が、スライドを見せながら、環境汚染の現状や食品添加物の弊害、人間の生き方まで言及し、熱弁をふるっておりました。私も知らないことが多く、たいへん勉強になりました。その講演の中で、「人間は幸せになる権利が一人ひとりあり、幸せになるために生まれてきたのだ」と語られた時、私の心に去来するある疑問が残ったのです。
たしかに人はみな、幸せになる為に日々努力しています。自分が、家族が、不幸になることを願っている人はひとりもおりません。しかし、人は幸せを日々求めていますが、何が本当の幸せか自分自身に問わないことも現実ではないでしょうか。
私が小さい頃は、テレビも洗濯機も冷蔵庫も何もありませんでした。でも、家族の一人ひとりに役割分担が決められ、助け合って活き活きと生活していました。
現在はといえば、機械文明が家庭の中のほとんどの労働を担っているので、家族がみんな助け合って仕事をする必要がないため、同じ屋根の下に住んでいても、家族の絆がバラバラになっているのでありましょう。
真宗のみ教えを聞かさせていただくと、たしかに我々は幸せを求めていますけど、世間でいう幸せよりもっと深いものを求めていることに気付かさせていただくことであります。幸せは求めても得られるものではありません。もし得られたとしても、それが当たり前になれば、すぐ色あせてしまうものだと…。
現代では、自分が幸せになるため、不幸を極端に恐れ、神仏にまで祈願をかけることが信仰だと思っている人がいます。そして、そういう人が信心深い人だと…。つまり、無自覚ではありますが、現代人は神仏を、自分の都合でもてあそぶ罪があるのではないでしょうか。
真宗のみ教えは、人間のその努力に先立って、往生極楽の道がすでにあたえられていることを教えてくれます。人生の深いもの、つまり、浄土に生まれることが、わが人生だと頷けた人は、たとえ悲しみや苦しみがふりかかってきても、自分を深めるご縁として、受け容れることができるのではないでしょうか。
私のお寺のご門徒は、ご法事の時の食事であるお斎を済ませると、それぞれ「みほとけの歌」という本を出し、仏教賛歌を歌うことがならわしになっています。
その中に、昔から伝承された「広大無辺」という歌があり、その3番目の歌詞に
これから先のひぐらしは
幸か不幸か知らねども
どちらになってもよろしいと
たしかな覚悟ができました
とあります。
幸せよりもっと深い、往生極楽の道がすでにアミダさまよりあたえられているのだと頷けば、幸も不幸も私を育てる大切なご縁となるのでありましょう。そして、いろいろなご縁をいただき、一番深い私となって、アミダの国に生まれるみ教えこそ、お念仏の教えなのです。

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