ラジオ放送「東本願寺の時間」

高間 重光(大阪府 了信寺)
第1話 出会いの言葉 [2008.6.]音声を聞く

おはようございます。
今日から6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマに込められている願いを確かめつつ、お話をさせていただきます。
先日ある研修会でこのテーマについて講師の方から、「多くの先輩の歩みがあってこそ今の私がある。そういう私に先立っての歩みが、私の聞法心、すなわち仏教の教えを聞こうとする心として今生きている。」という受け止めを聞かせていただきました。私も共感したことです。そのような了解のもとにお話をすすめていきたいと思います。
私はお寺ではない一般の家庭から僧侶になった者です。その大きなきっかけは、ご縁のお寺で仏教青年会活動をしていた大学3回生の秋のことです。大阪の南御堂で大阪教区の青少年を集めて一泊研修会が開かれ、私も参加しました。講義に先立って、みんなで意見交換をする時間がありました。そのとき私は、「いろいろとお話を聞かさせていただきましたが、私と仏さまとどんな関係があるのでしょうか。」と発言しました。丁寧そうに言っていますが、私の本音は「仏さまと有り難そうに言っているが、私とは何の関係もないではないか」というものでした。そしてその後で講義がありました。講師の先生は、「皆さんは地球の中心はどこだと思われますか。地球の中心は皆さんお一人おひとりがおられるその場所なんですよ。皆さんは自分では真剣に人生の意味をたずね、道を求めているつもりでしょうが、そのことが実は、わがままいっぱい、ということなんですよ。」とおっしゃいました。
この「わがままいっぱい」が私と仏法との出会いの言葉です。恋愛に悩み、人生とは何かと真剣にその答えを探しているつもりでいたわたしにとって、その言葉は衝撃であり、また大きな感動でもありました。その時から私の学びが始まりました。仏教っていったいどんな教えなんだろうと、とにかく聞きたくて聞きたくてたまりませんでした。その衝撃と感動が何によるものか、そのことを自分の言葉にできるまで少し時間がかかったように思います。
その衝撃と感動は、私と仏さまとの出会いであったと思います。仏さまとの出会いとは、私という存在の本当の姿が仏さまの言葉によって言い当てられる、ということだと思います。真剣に人生とは何ぞやと道を求めているつもりが、わがままいっぱいであったという事実。それは私の本当の姿をきびしく言い当てる深い智恵であると同時に、その私をすっぽりと包み込むという深い慈悲のこころでもあると思います。そこにあの大きな衝撃と感動があったのでしょう。救われるとは、仏さまの言葉によって私が言い当てられることと言ってもよいのではないかと思います。
そしてそのきっかけとなった言葉を私に語りかけてくださった講師は、その当時真宗大谷派の青少年部の部長をしておられた大阪教区の法山寺の前住職・藤原俊(さとし)先生でした。1986年に本山の要職の現役の時に亡くなっておられます。仏・法・僧の三宝に帰依する。すなわち仏、仏さまと、法、仏さまの教え、そして僧、その教えを共に歩む仲間、その三つの宝を人生でもっとも大切なものにするということは、仏教徒の原点ですが、とくに三つ目の、僧を大切なものとしていくという帰依僧について教学研究所の所長を長らく勤められた篷茨祖運(ほうしそううん)先生は、「仏の教えがその人の救済となっているところに仏教の面目がある。仏教の歴史は、目覚めた人から目覚めた人へという道の歴史である」とおっしゃっています。藤原先生の言葉に出会ってから、もう40年近くの年月がたちました。その日以来、真宗大谷派の僧侶として住職として私のたどたどしい歩みが今日まで続いていることですが、これまでの多くの方々との有り難い出会いが想い返されることです。

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