おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマに込められている願いを確かめつつ、お話をさせていただきます。
今回の最終回は私たち夫婦のことでお話をしてみたいと思います。1982年の秋に結婚しましたので、はや25年余りの月日がたちました。授かった二人の子、娘と息子も社会人になりました。私たちはお見合いで出合ったんですが、どちらも相手がすぐに気に入って、結婚式まで4か月というスピード結婚でした。
そんな出会いで結婚した私たちですが、やはり一緒に暮らすということは、そんなに簡単なことではありません。お恥ずかしいことですが、よく夫婦げんかもしてきました。もう10年も前のことになりますか、つくづく思ったことがありました。それは、いつまでこんな繰り返しを続けているんだろうか、ということです。もちろん平穏無事に仲良く暮らしている時期もあるわけですが、そのうちに何か事が起こって夫婦間がギクシャクしだすわけです。そしてまたそのうちに収まって元の平穏に戻っていくわけです。その繰り返しの生活をしているわけです。
その時に、ふと気付いたことがありました。それは、どのけんかの場合も、必ず私の心の中にあるものです。けんかの原因は、夫婦間のことであったり、子育てのことであったり、お寺のことであったり、親のことであったり、さまざまです。けれども原因が何であれ、けんかをした時に私の中に必ずあるものです。それは、相手を責めている心です。
世間では、物事を因果の道理でとらえます。つまり原因があって結果が生まれるというとらえ方です。それに対して仏教は、物事の起こりを因縁の道理でおさえます。因縁の道理では、世間でいう原因を、因と縁つまり原因の因とご縁の縁とのふたつに分けて考えます。その因と縁とが結びつくことによって結果が生まれると考えます。因は内にあるもの、縁は外にあるものです。けんかという事で考えてみますと、外にある縁とは、相手の言葉や行動です。内にある因とは、私の相手を責める心です。その因と縁とが結びつくことによって、けんかするという結果が生まれるわけです。内にある因は、外からやってくる縁によって呼び覚まされてくるものですが、外からの縁があれば、必ず内の因なるものが呼び覚まされるのかというと、必ずしもそうではありません。そうならない場合もあります。その場合は、けんかという結果も生まれません。したがって、私の側に責往の半分はあるということです。
私たちは、けんかをした時、相手を変えて相手に謝らせて解決しようとします。けれどもそれは、出来ない相談です。他人を変えることは出来ません。けれども、自分が変わることは出来ます。私が夫婦げんかをした時、私の中に必ずある、相手を責めている心、その事に気付いてから私は、相手からの外からやってくる縁に出会った時、「この縁にそのまま乗っかって相手を責めてしまったら、またいつもの繰り返しになってしまう」となんとか踏みとどまろうと心掛けるようになりました。もちろんそんな簡単なことではありませんが、それでもそれ以来ふたりの状況は、少しずつ変わっていったように思います。その気付きは、私にとってとても有り難いことでした。
明治の時代にわたしたちの真宗大谷派に出られ今日の宗門の信仰運動のいしずえを築かれた清沢満之先生は、「他を責めんとするその心を責めよ」という言葉を遺してくださっています。