ラジオ放送「東本願寺の時間」

高間 重光(大阪府 了信寺)
第4話 愚痴の止み場 [2008.6.]音声を聞く

おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマに込められている願いを確かめつつ、お話をさせていだきます。
しばらく前の事ですが、中年の女性からこんな相談を受けました。「姑のことなんですが、足の関節が痛みだして、一日に何度となく私に、はよ死にたい・はよ死にたいと言うんです。どう答えたらいいでしょうか。どう対応したらいいのでしょうか。」
たまたまお会いした時の急なお尋ねでもありましたので、たいした答えも浮かんでこなかったのですが、およそ次のようなお話をさせていただきました。「お母さんは、痛みの余り言っても仕方のない愚痴をこぼしておられるんですね。仏法つまり仏教の教えですね、その仏法を聞くご縁のあった人なら愚痴をこぼしても、その愚痴をこぼしている自分の姿に気がついて、その気付いた所に愚痴が止んでいく、ということがあるんですが。けれどもお母さんは、仏教のお話を聞くご縁のなかった方ですね。・・・」申し訳ないことでしたが、その時はそれだけお話をしてお別れしたことでした。
物事が自分にとって都合よくいっている時に愚痴をこぼす人はありません。けれども状況が変わって自分にとって都合の悪いことが起こってくると愚痴が出てきます。もしその姑さんの状況が、痛い所もなく体も元気で、回りの人からも大事にされているということであれば、愚痴をこぼすどころか、「私いつまでもこの世に居りたいわ。」ぐらいのことをおっしゃっているのではないでしょうか。
また愚痴とは、こぼすものですし、こぼれるものです。愚痴を言うのに考えてから言う人はないでしょう。ですから、どんな人もわが身に都合の悪いことが起こってくると、つい愚痴が出てしまうものです。それは仏教のお話を聞くご縁の有る無しに関係の無いことだと思います。
問題はその後です。愚痴をこぼした後です。万事都合よくいっておれば愚痴など無い。けれども不都合な状況が起こってくると愚痴をこぼしてしまう私、そういう自分の姿に気が付くかどうか、ということです。そういう自分の姿に気付きを与えられた時、愚痴は止むのでしょう。仏教では、仏は光で、それに対して私たちは闇として表現されます。それは、私たちが仏教の教えに耳を傾けることなくしては、気付くことのない問題・闇を抱えているからでしょう。仏教の教えの光に照らしだされることによって、初めて自分の闇に気付くことができるのです。愚痴一杯の自分の姿への気付き、それは仏教のお話を聞くご縁なくしてはあり得ないことなのです。
その後しばらくしてその方と出会いました。「この前はいろいろと有り難うございました。あの後母は手術をしまして、お陰さまで痛みも取れ、少し歩けるようにもなりました。」とお礼をおっしゃってくださいました。そして続けて「この前お話をお聞きしまして、私の仕事は母の愚痴を聞いてあげることだと思いました。」とおっしゃったのです。
その方のお尋ねに対する私の話は中途半端なものであったにもかかわらず、その方は私の話の何倍もすばらしい答えを見つけ出してくださったのです。本当に尊いお方だなあと頭の下がる思いでした。その方は私のお寺とある一時期しかご縁のなかった方なのですが、以前に故郷は九州で、小さい頃は年寄りに連れられて、よくお寺にお参りしましたという話を聞いたことがあります。子どもの頃のその体験が消えてしまうことなく、その方を少しずつ育てつづけてくださっていたのでしょう。

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