ラジオ放送「東本願寺の時間」

高間 重光(大阪府 了信寺)
第5話 分からんでもええんやで [2008.7.]音声を聞く

おはようございます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマに込められている願いを確かめつつ、お話をさせていただきます。
京都の東本願寺には同朋会館という研修施設があります。全国の信者である門徒の皆さんや僧侶が、共にお参りし、仏教の教えに耳を傾け、語り合い、真宗門徒であることの中身を確かめ合う大切な場所です。毎朝は阿弥陀堂と御影堂にお参りしお勤めをしますが、夕方のお勤めはその同朋会館の講堂で行われます。お勤めの後、数名の方に日頃感じておられることを話して頂くことになっています。しばらく前のことになりますが、お坊さんの研修で来られていた二十歳過ぎの女子学生のこんなお話に出会いました。
「私は名古屋から来ました。この一年間仏教の勉強をしてきましたが、本当のところほとんど何も分かっていません。その事を家に帰って90歳になる年寄りに打ち明けましたら、分からんでもええんやで、と言ってくれました。私はその言葉を支えにしてこれから歩んで行きたいと思っています。」
おそらくこの方はお寺の娘さんではないかと思います。その90歳になるお年寄りとは、その方のおじいさんでしょうか。それにしても素晴らしい言葉ですね。一年間学んできたけれども何も分かっていないというその方を、まったく無条件で、そして丸ごと受けとめられた言葉です。そしてその受けとめは、その方に大きな力を与えました。そのような言葉はどこから生み出されて来るのでしょうか。
私たちの有り様を考えてみますと、人を受けとめるということは簡単ではないように思います。むしろ反対に私たちは「あいつはダメだ」と、いとも簡単に人を切り捨ててしまうことが多いのではないでしょうか。以前近くのお寺の住職さんが中学校のPTAの役員をされていた時の経験を聞いたことがあります。先生と一緒に、問題の多い生徒さんの家を訪ねて保護者の方と相談しようとすると、「私たちもこの子には困り果てています。皆さん方でどうとでもしてください。」と言われて、あきれ果ててしまったとおっしゃっていました。けれどもこの方を、とんでもない親だと言えるでしょうか。親の言うことをよく聞いて、勉強もよくできて、というような子どもなら親にとって可愛い子ということでしょうが、もし親の言うことは聞かない、勉強はきらい、他人には迷惑をかける、という子どもなら、だんだん要らない子どもになっていくのではないでしょうか。
人の生まれつきのやさしさとか、包容力とかは、たかがしれていると思っています。むしろ、自分のやさしさがいかに足りないか、いかに人を包み込むことができない自分であるか、それを思い知らされるところに、新しい生き方が開かれてくるのだと思います。
浄土真宗を開いて下さった親鸞聖人はご自作の歌である和讃の「摂取してすてざれば」というお言葉に、「摂はものの逃ぐるを追わえ取るなり。取は迎えとる。ひとたびとりて長く捨てぬなり。」つまり、摂とは、仏さまの御心に背いて生きている私たちをどこまでも追いかけていって救って下さるということ。取とは、仏さまの御心に気付かずにいる私たちを辛抱強く待ち続けて下さっているということ。そしてそのような仏さまの御心に気付いた人は一生涯その仏さまの御心を忘れることはない。と注釈されています。私たちの気付きに先立って、仏の側から私たちに深い願いがかけられていると言うことでしょう。摂取とはその事への気付きでもあります。90歳のその方も、きっと本願念仏の教えに耳を傾け、そのすくいとって捨てないという摂取不捨の世界を頂かれ生きて来られたにちがいないと思います。その90年の歩みの中から生まれてきた言葉が、「分からんでもええんやで」という尊い言葉なのではないかと思います。そしてその女子学生さんは、本人の言葉通り、その言葉に支えられて歩んでおられることでしょう。

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