ラジオ放送「東本願寺の時間」

楠 信生(北海道 幸福寺)
人間の問い [2008.7.]音声を聞く

おはようございます。
今朝から6回にわたりまして、「今、いのちがあなたを生きている」という親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマについて、今、わたしがテーマを通して考えたこと、気付かされたことについてお話してまいりたいと思います。
今から30年あまり前、夏の暑い日でした。わたしがまだ20代で“若さん”と呼ばれていた頃、あるお宅にお参りにお伺いしたときのことです。そのお宅は農家で、若い人たちは畑仕事で外に出て、おじいさんがひとりその家に居られました。
お参りが終わってお茶をいただいていると、突然その方が、
「若さん、俺みたいに一度も寺へ参ったことのないものでも、夜中に眼が開いて、俺もいつか死ぬのだなあと思うと、朝まで眠れないことがあるのだ」
と話されたのです。
そのとき、わたしはその方に対して何も言えませんでした。その後どんな会話をしたのかもまったく憶えていませんが、その一言がいまだに耳に残っています。
その方から見れば、わたしは子どもか孫のような年齢です。ただわたしが、衣を着て袈裟をかけている、そのことだけで、家族にも言えないような心のうちを正直に語ってくださったのであります。
そしてその言葉を思い出すたびに僧侶であることの使命の重さと、人と生まれたからこそ持つ普遍的な問いと不安ということを思うのです。
老いと病と死を見てこの世の無常を悟るということは、道を求める心のもっとも基本的あり方です。老いということを他人(ひと)事ではなく自分自身のこととして感じ、病の憂鬱さを知り、死に対する恐れと不安を抱く。それもこれもその背景にあるのは、この世に人と生まれて生きているそのことの意味を求めてのことでありましょう。
また同じく、20代のとき経験した忘れられないことがあります。
それは、89歳のおじいさんのことです。
そのおじいさんにわたしは大変お世話になったことがありました。小学生の頃、盆参りなどでそのおじいさんの住んでおられる地域に行ったときに、道案内のため一日中、それこそ朝から夕方まで一緒に歩いてくださったのです。そんなご恩のある方でした。
その方が危篤であるということで呼ばれました。住職である父が不在であったため、わたしがお伺いしました。かつては命終わらんとするとき、本人か家族の人の希望で僧侶が呼ばれるということがたまにあったのです。
お参りが終わって、おじいさんの枕元に座りました。おじいさんはわたしの手を握って「若さん、おれ寂しい」と言って涙を流されました。そのときも、ただおじいさんの手を握り締め眼を見つめるだけで、「念仏申しましょう」の一言もかけるでもなく、沈黙を通すしかありませんでした。
いくつまで生きても、もう分かったというものではないという厳粛な事実を教えていただいたと思います。
人間は意味を求める存在です。どんなことでも意味を見出すことができないならば、耐えることができません。しかし、人間が生きるということについて、人間自身が状況の中で付けた意味であるならば、状況が変われば意味を失うことになります。
生きる意味は、人間のものさしで付けるようなものではないのでしょう。むしろ、どんな状況の中でも、「あるがまま」「ないがまま」に、意味を見出させてくださるのが、仏さまの教えなのでしょう。

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